第64回 株式会社ビーライン 地域資源ファンド事業 TONIO Web情報マガジン 富山

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企業活動には山あり谷あり。谷から脱却し、右肩上がりに導いた経営者のひと言には再起のヒントあり。

第64回 株式会社ビーライン

高い目標を掲げ、次の一手の
選択肢の多い企業に

パーティー等が行えるレストランから、すし屋の展開に
舵を切った(株)ビーラインの大坪悟社長。

 確か15年前のことだ。
 このTONIO Newsの取材で、大坪悟社長にお目にかかったことがある。当時、同氏はビーライン創業から5年目くらいで、富山県内で4店の飲食店を開いたのちに中国へ進出。北京で火鍋店をオープンしてしばらくした頃だった。「日本経済新聞」(平成22年10月5日付)に「北京に食べ放題火鍋店 富山のビーライン」のタイトルが踊ったのを記憶している。
 取材は、その記事の少し後だった。その時、大坪社長(当時31歳)は、「35歳までに売上げ10億円規模の飲食店を中心にした企業グループをつくりたい」と大志を語っていた。今回は、その後の足跡をうかがうために訪ねた。
「いやー、そんなことを言っていましたか。若気の至りというか…」と頭をかきながら、「でも目標を掲げて事業を進める姿勢は持ち続け、遅ればせながらビーライン単体では昨年9億7000万円に達し、今年の決算では目標はクリアできそうです。おかげさまでこの15年、いろいろと経験を積ませていただきました」
 大坪社長はそう言葉を継ぎ、創業の経緯から話し始めた。

富山から北京へ

平成22年、北京で開いた「火鍋維新 富山海」の
当初のスタッフ(写真上)とお店の外観(写真下)。

 中学生の頃から「将来は人に喜んでいただく仕事、楽しんでいただく仕事に就いて、いずれはそういう会社・お店を持ちたい」と思っていた大坪社長。同様に起業の夢を持つ同級生2人と、未来を語り合ったという。関東の大学に進学してからの大坪社長は、学業のかたわら飲食店でアルバイトをし、卒業後はイベントを企画運営する会社で働きながら、“起業のネタ探し”を続けたのだった。
 24歳の時、ともに独立の夢を語り合ったかつての同級生2人と再会した。1人はフランスで料理の修業をした後、都内の大きなホテルで調理人として勤務。もう1人は県内の居酒屋チェーンで店長を務めていた。改めて夢を語り合う中で、「力を合わせて自分たちの店を持とう」と意気投合。話し合いの結果、料理長とフロアマネージャーを2人の友人が務め、経営全般は大坪社長がみることに。こうして平成17年3月、富山市中央通りにレストラン「ビーライン 富山店」をオープンし、翌年には法人化したのだった。
 「最初私は、おしゃれなお店を目指しました。若い男女にデートで使っていただくような、落ち着いて雰囲気のあるレストランです。ところが初期は鳴かず飛ばずでした。私は、そういう店をお客様も望んでいると思っていたのですが、私のひとり善(よ)がりでした。そこでお客様の声を拾ううちに、例えば結婚式の二次会のような、『仲間うちでにぎにぎしく食事会ができる場が欲しい。富山にはそういう飲食店が少ない』というニーズに出合い、路線転換を図ったのです」(大坪社長)
 この後、「ビーライン 富山店」は軌道に乗るように。平成19年には山室の商業施設に居酒屋をオープンするも、こちらも苦戦の連続。さらにその翌年には高岡市赤祖父に「ビーライン 高岡店」を構え、その2階にしゃぶしゃぶ・すき焼きなどの鍋料理専門店「なべ維新 高岡店」を出店。「なべ維新」の好調な出足を受けて、山室の居酒屋を「なべ維新 山室店」として再スタートさせたのである。
 4年で4店舗を構えた大坪社長。今度は目を転じ中国進出を図った。
「実は兄が平成12年頃に中国に留学し、『中国はこれから発展する』とよく聞かされました。当時はまだ多くの人々が人民服を着ていましたが、経済や社会の変化を肌で感じた兄は、中国の成長を予感したのだと思います。その後ご縁があって、ある社長に誘われて平成19年の春に北京を訪問し、兄が言っていた中国の発展を目の当たりにしました」
 大坪社長は当時を振り返ってそう語るが、ここで北京進出を本格的に考察。その年と2年後の平成21年、当機構が実施した「中国ビジネス商談ミッション」に参加して情報収集を始めるとともに、中国ビジネスに詳しい当機構のアドバイザー(大手商社中国担当OB)やJETROの指導も仰ぎながら、そのチャンスをうかがった。そして念願叶って同氏は、北京に「火鍋維新 富山海(フーシャンハイ)」を構えたのであった。

今度は台北へ

「てば壱」のロゴマーク(画像上)と調理例の唐揚げ
(写真下)。一時は台北にもお店を出した。

 「中国での多店舗展開も考えていましたが、思っていた以上に人との繋がり、人脈を重視する文化があり、私はなかなかその壁を越えることができませんでした。また北京で豚肉や牛肉を使っての鍋料理屋をやってみて、メインはイスラムやインドの方々ですが、宗教上の理由などからそれらを食べない人がいることを目の当たりにし、“鳥肉ならばそういうタブーは少ない。世界展開を考えるなら鳥肉の方がいいだろう”と思いました。そこで行き着いたのが手羽先の唐揚げや串揚げをメインにした居酒屋です。手羽先でしたらワンハンドで食べることができますし、キッチンカーの移動販売から始めて様子を見て、お客様の反応がよければ居酒屋が出せる、と思ったのです」(大坪社長)
 揚げ方や味付けは、料理長が独自に考案。ビーラインブランドの「てば壱(いち)」と銘打ってFC(フランチャイズ)展開も視野に入れてスタートしたのである。この「てば壱」。レストラン「ビーライン」や「なべ維新」に比べて、初期投資を抑えて出店することが可能であったため、のちには10店舗近くまで増加(FC店含む)。平成24年には富山-台北便が就航し、人的・経済的な交流が盛んになることが予感されたことから、同社では「てば壱 台北店」を出店し(平成25年)、FC世界展開の足がかりにしようとしたのだ。

そして富山に戻って

写真上は「廻転とやま鮨 富山きときと空港店」
(リニューアルして現在は「とやま鮨らーめん空港店」)
のメニューのひとつ「お寿司」と「ブラックラーメン」。
写真下は「廻転とやま鮨 富山駅前店」の店内の様子。

  ただここで大坪社長は立ち止まった。
 「富山のビーラインが、台北で手羽先の唐揚げ店を運営する意味って何なのか!?」と。北京で鍋料理店を始めた時も「富山らしいもので商売しなくていいのか」と頭の片隅で問いかける声があったそうだが、台北ではその声が大きくなったわけだ。
 大坪社長が振り返る。
 「富山らしいものというと、新鮮な魚介類です。これを活かすというと、すしです。今後『すし』をキーワードにしてビジネス展開を考えてもいいのではないかと考え始めました。その矢先、富山きときと空港ですし屋のテナント募集が始まったのです」
 時は北陸新幹線金沢駅までの開業(平成28年3月)の3年前。新幹線の運行により、富山-東京間の航空便の減便が予想されたため、県内のすし屋は1店も手を挙げなかったそうだ。厳しい経営が予想されたにもかかわらす、ビーラインでは県の要請を受けて出店することに。平成26年2月に「廻転とやま鮨 富山きときと空港店」をオープンし、8月には「廻転とやま鮨 富山駅前店」も暖簾(のれん)を出した。大坪社長によると、「富山駅前での回転すし屋はこれが最初ではないか」と。ビーラインは富山の2つの玄関口にすし屋を構えたことを皮切りに、「お座敷とやま鮨」「とやま鮨 銀座」(ライセンス店)「のとめぐり」(金沢市)などをオープン。富山県やJR西日本に請われて、氷見・城端線を走る観光列車「べるもんた」に、「とやま鮨 べるもんた店」も出店するなど、お店の方向性を変えたのだった。

FC展開のノウハウを学ぶために

「焼肉 牛角」のFCに加盟して、ビーラインが運営する
「牛角 小杉店」。FC運営のノウハウなどを勉強するために
加盟し、「てば壱」のFC展開の再開を目指している。

 一方で、経営資源をすし屋出店に集中させるためにレストラン「ビーライン」や「なべ維新」は随時店じまいし、10店を超えるまでになった「てば壱」の展開も抑えるように。 FC店の中には“ビーラインのてば壱”の枠からはみ出て、FC店オーナーのカラーを前面に押し出すところが出始めたのだ。
  大坪社長が自戒を込めて回想した。
「FC店を運営する仕組みや契約のあり方が十分でなかったため、うまく回らなくなったのです。そこは私の勉強不足でした。そこで順調に回っている富山駅前店と高岡内免店を残して、他は順次閉店しました。ただ、いずれは『てば壱』のFC展開に再チャレンジしたいと思っていますので、『牛角』のFCに加盟し、FCの運営について学ぶことにしました」
 「牛角」とは「焼肉 牛角」のブランドでおなじみの(株)レインズインターナショナルが運営するや焼肉のFC店。姉妹ブランドも合わせると1000店を超えるFC店を展開する飲食店グループだ。大坪社長はそのFCに加盟して「牛角 小杉店」を出店(平成28年11月)。FC展開のノウハウを学ぶことにしたのだ。

食堂の運営も

富山県庁食堂の内部。「リーズナブルな価格で日替
定食を豊富にし、利用率と回転数を上げて、赤字に
ならないように工夫している」(大坪社長)という。

 同社のこうした積極的な店舗展開に注目し、「飲食コーナーの運営をお願いしたい」とオファーする事業者が現れた。その1社は富山県庁生協で「本庁と総合庁舎の食堂の運営を任せたい」と、もう1社はJR西日本で、「富山駅前のホテルヴィスキオ富山のレストラン部門にテナントとして入って欲しい」というものだ。
 「ホテルヴィスキオのオープンは令和4年3月。オファーいただいたのはその前年です。コロナ禍で飲食店が疲弊している時で、テナント募集を始めてもどこも手を挙げず、当社に声をかけていただきました。これまでの飲食店経営のノウハウを活かせば、なんとかなると思いお受けした次第です。問題は県庁の食堂の方でした」
 大坪社長はこう語り、食堂運営の難しさを指摘した。その1つは食堂の設備や機器を借用して運営するというスタイルのため、受託事業者サイドの都合で機器の入れ替えなどが簡単にできないこと。また事業主体は県庁生協であり、福利厚生の一環としての食堂であるため材料費が高騰しているからといって、ビーラインの一存でメニューの値段を上げることができないことだ。
 「食堂の運営は令和3年5月から始めました。いわゆる社員食堂ですから高い値段設定はできません。500〜600円程度で定食を摂ることができるようにしています。それも利用率を上げるために、日替り定食を多めに。献立作成も調理も、現場のスタッフが工夫を凝らしてやってくれるおかげで、初年度から赤字ではなくなりました」(大坪社長)
 Scrap&Buildを繰り返しながらもビーラインの事業基盤を強くし、また事業の拡大を図ってきた大坪社長。コロナ禍で飲食店が悲鳴を挙げている最中、同社では賃金カットや人員整理は一切行わず、「富山県地域企業再起支援事業費補助金」(令和2年度)の採択を受けてweb関係の充実による情報発信の強化に取り組み、V字回復の時を待った。
 「内部留保がたくさんあって、それで雇用を守ったのですか」とうかがうと、「社員の皆さんとの信頼関係を損なわないために、コロナ対策の融資を限度枠いっぱいいっぱいにお借りしました」と大坪社長は返し、「コロナでたいへんな時の私の一番の仕事は、金融機関に行って融資をお願いすることでした」と付け加えた。そのおかげか…。新型コロナウイルス感染症の流行が下火になる気配を見せ始めた令和5年には、同社は創業以来、最高の売り上げを達成し、翌年はその記録も更新。令和7年の決算ではさらに伸ばす勢いがあるという。

               *     *     *

 最後に、大坪社長に今後の抱負についてうかがうと、以下のような答が返ってきた。
 「私どもでは観光飲食という考えの下、県外や海外からのお客様にもご利用いただく、すし屋を中心に事業を展開しています。今年は春にかけてスタッフを17名増やす計画で、将来的には外国人の広報スタッフやすし職人がいてもいいと思っています。ただしそのすし職人は、日本のすし職人同様にすしを愛し、ネタの魚やすしの文化に詳しいことが求められます。そうやって事業を拡大し、上場基準を満たす企業になりたいと思っています」
 「上場基準を満たす?」と問いかけると、「そうです」と返してきた。そして「企業のあり方や売上や利益の拡大・充実を図り、財務内容・経営管理の手法などのクオリティーを高め、次の一手の選択肢の幅が広い状態に持っていきたい。その時の状況に合わせて新しい展開を図りたいのです」と続けた。
 「では10年ほどしたら、また取材させてください」と申し出ると、大坪社長は「ぜひ」と笑顔で答えた。

  • 「中国ビジネス商談ミッション」について(この事業は終了しています)
  • 「富山県中小企業再起支援事業補助金」について(この事業は終了しています)

連絡先/ 株式会社ビーライン
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作成日  2025/03/26

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