TOP > 中小企業ルネッサンス > 第40回 株式会社山口技研
事業継承もうまく行き、今度は拡大に
部品加工から、装置メーカーも視野に
金型の設計製作から機械部品の精密加工に軸足を移した山口正人
会長。山口技研の創業者でもある。
「もしあの時、息子がそばにいてくれなかったら、弱気になって会社を閉じることを考えていたかもしれません」
そういってリーマンショック(平成20年9月)後のどん底時代を振り返るのは、山口技研の山口正人会長。当時は社長として陣頭指揮をとっていたのだが、その3年前に大手IT企業を辞めUターンして経営をサポートしていたご子息の剛史氏から「とにかく2年間はがまんして、がんばろう」と声をかけられ、従来にも増して奮い立っていたのだった。
とはいえ、最も厳しい時で仕事量は従来の1/3に。事務所の電話はほとんど鳴らなくなった。仕事の発注元を訪ねて営業しようにも、そこも同じ状態だから行くあてもなく、また新規開拓に歩こうにも業界全体が氷河期に入って冬眠しているような状態であったため、結局、会社にいるしかなかったのだ。
「内部留保を取り崩し、国の雇用安定の補助金も活用させていただき、社として掛けていた保険も解約して戻ってきたお金を事業に回しました。従業員の皆さんには、恥ずかしながら給与カットや自宅待機もお願いし、何とかしのぐことができました。当社の場合は、まだよかったのかもしれませんが、経営の厳しさを息子と一緒に経験できたことは別な意味で収穫でした」と会長は回想するのだった。
平成26年に同社の社長に就任した山口剛史社長は、精密加工という
同社の軸足を大切にしつつも、一歩進めて装置メーカーを志す。
もともと山口会長は県内のあるアルミ製品製造企業に勤務。しばらくそこで働いて設計の仕事を覚え、34歳の時に独立を果たした。
「初めは自宅で、元の職場のご縁でプレス金型の設計を行い、時々知人の工場からの依頼で機械部品の図面などを描いていました。そのうち友人の紹介で県内の中堅企業からも受注するようになり、一方で『設計だけでなく製造もやったら』と誘われ、知人の工場を外注先にしてものづくりも始めました」(山口会長)
これが創業の翌年の昭和53(1978)年のことだ。
ところがものづくりを始めると、製品に不具合が生じることも。こうした場合は、自ら加工機を操作しながら解決策を模索しなければならないのだが、製造をすべて外注していた同社にはこれができず、もどかしい思いをしていた。そして、それが高じて、自社の製造ラインを持つ決心をしたのだ。
自前の工場を持つと、それを聞きつけて金型の設計製作の他に、機械部品や治具部品の製作・加工などを依頼してくる企業が現れ、会社は順調に社歴を刻むように。バブルが弾けた時も同業他社に比べると比較的打撃は少なかったそうだ。
「その頃になると、二次下請け、三次下請けのような形で、大手企業数社の金型や機械部品を設計してつくっていましたが、バブル崩壊の影響は当社には時間差をともなって現れてきました。例えば、東京に本社があるA社の仕事はバブル崩壊とともに少なくなりましたが、同様の製品をつくっている富山の企業B社からの仕事ではその1年後に影響が出始め、C社からの発注はさらに数カ月遅れて減るようになるなど、タイムラグがありました。そしてそのうちにA社からの仕事量が徐々に回復するようになったのです」(山口会長)
特定の1社の仕事に依存し過ぎないようにしてきたことが功を奏したわけだ。しかしそれも平成10年を過ぎる頃になると事情が一変。メーカーの多くが生産拠点を中国に移し始め、金型の設計製作も中国で行い始めたのだ。また従来のような大量生産ではなく、多品種少量生産が主流になると、金型の製作の後で製品づくりに入るより、機械加工による切削や研磨を通じて製品をつくった方がコストダウンが図れることがわかり、金型づくりの工程そのものが部分的になくなるようになったわけだ。
上はマシニングセンタにて表と裏を加工して平行度や直角度を
±0.03としているシリンダ(医療設備装置/材質SKS3)。
下は先端部に半導体端子がエアー吸着される受台。ステンレス
の研磨加工を用いて、すべての直角度を±0.02としている。
ここにきて山口会長(当時社長)は、より精密な加工が求められるジャンルに軸足を移し、将来を見据えて工場を増設(平成12年)。その3年後にはマシニングセンタを導入するなど設備も充実し、舵を大きくきったのだ。
「マシニングセンタの導入は、当社の場合は遅かったのですが、それ以前はNCフライス等を使いこなし、他の設備と合わせて一貫加工ができる体勢を整えていました。この一貫加工が他社との差別化につながり、切れ目なく仕事が入るようになったのです」
山口会長の言葉を敷衍すると、例えば機械部品の加工では、装置として組み立てるまでに成型、切削、研磨などの作業をいくつも経る。かつては工程ごとに、あるいは2〜3の工程をまとめて外注に出されていたのだが、同社では設備の充実を図る中で一貫加工ができるラインを整え、これを同社の強みとして活かし仕事を確保してきたのだ。
メーカーの生産拠点の海外移転はますます進み、県内企業も大連などに相次いで進出。山口会長は仕事を確保するために工場長と手分けして1週間で40社ほどに営業をかけるなどして、当時生産が伸びていた携帯電話やコネクターの部品加工を請け負うように。そうした、業界全体が少し右肩下がりの状況の中でご子息の剛史氏がUターンして事業を手伝うようになったのだ。
「私はIT企業に勤め、SEとしていろんな客先を訪問させていただきました。ですから営業が苦手ということはなかったのですが、父と同じような形で営業したのではさらなる拡大は望めません。そこで別な方法を模索することにしたのです」(山口剛史社長、当時は役員)
その別な方法というのは、当機構が大都市圏で行っている商談会に参加すること。この商談会は神奈川、愛知、大阪などの府県で開催され、富山県内のものづくり企業が得意な技術を紹介することを通して現地企業とのマッチングを行い、取引きの拡大を図ってきたものだ。
「営業が苦手でないといっても、例えば自社の技術を売り込むために、自動車メーカーやその部品大手にアポ取りの電話を入れても、なかなか調達の部署にはたどり着けません。ところがこの商談会に参加すると、最初から調達担当者に直接会って商談することができますし、仮に採用にならなくても客先が求めている技術レベルを確認することもできます。ですから、この商談会には今日もなるべく参加するようにしています」と山口社長は積極的な姿勢を見せるのだった。
社員一人ひとりが現場に責任を持ち、技術者として活躍する同社
の工場。上は向こうに見えるマシニングセンタに送るためのプロ
グラムを確認している様子。同社では複合加工技術を開発して
工期を短縮。写真はその加工を行っている様子を撮ったもの。
同社がこの商談会に参加するようになって、12年の月日が流れた。最近では金融機関も同様の商談会を行うようになり、そこでも取引先を増やしてきたのだが、「60を超える当社の取引先の内、半数くらいは新世紀産業機構の大都市圏での商談会に参加した結果、開拓できました」と山口社長がいうほど経営の安定に一役買ってきた次第だ。
精密部品等へのシフトも、ご子息が社長に就任される平成26年前後からは、さらに進んだ青写真が描かれつつある。氏の言葉を借りるとそれは、一貫加工の先のアッセンブリーにまで間口を広げ、場合によっては装置の設計もできるようになりたい…という夢を、夢で終わらせないようにすることだ。
その手始めは、青写真をビジネスプランに落とし込んで中長期の経営計画を立て、県の経営革新の承認を受けて(平成24年度)工場の増設や設備の充実を図ること。それには国の産業支援施策の、いわゆる“もの補助”(平成24年度、25年度、27年度)や当機構の第二創業支援モデル事業(平成26年度)が山口社長の背中を押す形となり、設備の導入支援をとおして、装置メーカーへの1歩が踏み出されたのだった。
ただ、工場の増設や機械設備を充実させるだけで、装置メーカーに脱皮できるものではない。装置の設計から各部品の製造、組立て、それら一連の作業を総合的に把握し、ラインを組み立てることのできる人材が必要だ。山口社長はその人材を育てるために、社員の1人を某自動車メーカーの関連企業に出向させ、製造や生産管理について実践的に学ばせている。
こうした取組みは、ある意味、社員からの要望でもあった。いわく「社会貢献が実感できるようなものづくりがしたい」と。つまりは、ある部分の完成品を自社内で設計製作できるようになりたいというのだ。そのためには社員一人ひとりのスキルアップが必要で、自分たちのモチベーションが上がればそれも可能だと社員は熱い思いを持っているという。
「就職活動をされている学生との面談の中でもこのような意識を持っている方を見るようになりました」と山口社長は近年の採用活動を振り返って語るが、「社員の皆さんにとって働きがいのある会社とは何かを考えると、こうした意見は大事にしないといけない」と取材を結んだ。
ちなみに同社には女性社員が多く(約4割)、エンジニアとしてプログラムを組みながらマシニングセンタを使いこなす方もいるとか。「技術で明日を元気にしたい」という同社のキャッチフレーズは女性社員の皆さんが半分を担っているというわけだ。
連絡先/株式会社山口技研
〒939-0647下新川郡入善町道古183
TEL0765-72-4344 FAX0765-74-1113
URL http://www.yamaguchi-giken.com/
作成日 2017/03/24