TOP > 中小企業ルネッサンス > 第35回 株式会社なかしま
電機部品製造業から食品加工業に大転換
人とのご縁、地元のご縁を大切にして復活
同社主力商品(冷凍品)の一部。「富山湾産白えびかき揚げ」
「鰤大根」は人気商品のひとつ。揚げ物は“やわらかさ、おいしさ”
を追求して手揚げにしている。「北陸新幹線開業により、駅周辺の
そば屋の中で、同社のかき揚げを採用するところが急に増えた」
(中嶋社長)という。
「当社は、今でこそ安定してスムーズに運営されていますが、一時、浮き沈みが激しかったこともあります。沈んだ時、沈みっ放しにならなかったのは、ご縁をいただいた方々からのご支援のおかげです」
中嶋務社長はそういって、四十数年に及ぶ社歴をひも解き始めた。
まずは先代が、1969(昭和44)年に電機部品製造業を創業。高度成長の波に乗ってこのまま……と思ったのも束の間のことで、オイルショック(1973年、79年)をはじめとする不況の波が襲ってきた。メーカーが生産量を絞り始めるとともに部品の内製化を図ったため、いわゆる同社のような協力工場は売り先がなくなって在庫の山を築くことに。親子で「この先どうする!?」と思案を続けるうちに、「人にかかわる衣食住の中で、自分たちにはファッションセンスはないから衣の仕事は難しい。住も資金量を必要とするから荷が重い。食の場合は、もともと食べることが好きで、元手も多くはかからないだろうから、なんとかなるのでは……」というところから、小なりといえども食品メーカーへの変身を決めたのだという。
1987(昭和62)年より、パック詰め総菜を市場に卸し始めるのを機に、業種の転換を図ったのだが、思うように販売量が伸びない。大手業者の進出で、同様の総菜では差別化が図れなかったわけだ。父親(社長)に代わって中嶋青年が市場に出入りし、レシピを工夫して売り出すものの、簡単には売れなかった。そうこうするうちに、「最近、若いのが市場を歩いている」と評判になり、ある食品問屋のバイヤーが「君はいったい何をしたいのか」と尋ねてきたのだ。
中嶋青年は答えた。「食の分野で仕事を確立したいのだが、何をしたらいいかわからない。それで市場を歩いて、そのヒントを探している」と。
するとバイヤーは「大根のなますや大学芋はつくれるか。つくってウチに持ってきたらいい」と助け舟を出してくれたのだ。「地獄で仏……」は言い過ぎかもしれなが、それに近い出会いであった。
加工食品メーカーに転身してからは、問屋等に誘われて展示会に頻繁に
出展し、そこでご縁を得た来場者との信頼関係とビジネスマッチングを下
に納品先を拡大していった。
「当時は、あまり資金に余裕がなかったので、仕入れて、つくって、売って、早く現金化する。この繰り返しでした。問屋さんも、当社への支払いは早めに処理してくれるなど、初期は本当に支援していただきました」と中嶋社長はいい、「あの時、バイヤーの方に声をかけていただかなかったら、当社はどうなっていたかわかりません。支援していただいた問屋さんには本当に感謝しています」と続けた。
聞くところによると、同社は一時、年商の半分を超える負債を抱え、自転車操業の毎日。中嶋社長は「何のために働いているのか、わからなかった。普通なら倒産していたはず」と振り返るが、金融機関の支店長は「整理のことなど考えないで、信じる道を進んだらいい」と背中を押し続けてくれたという。
地元のこうした支援者、理解者が同社を危機から救い、その数十年後に今度は同社が助ける側に回るのだが、そこに至るまでに同社は復活の歴史を刻まなければならなかった。
飛躍のきっかけをもたらしてくれたのも、先の食品問屋だ。懇意にしていたバイヤーが、小売店向けの展示会への出展を誘ってきたのである。それに応じて出展したところ、2つの食品スーパーの目にとまって、商品を納めるようになった次第。その出展が縁で、今度は別のルートから展示会への出展を勧められ、その会場で商社の食品担当者と出会うことに。その担当者から天ぷらを揚げることを勧められ、老舗の天ぷら屋との業務提携に発展。そのおいしさが評判になり、外食産業からのオーダーが舞い込むようになったのだ。
幸運はまだ続く。件(くだん)の食品問屋に誘われて再び展示会に出展したところ、隣のブースの経営者(卵焼きメーカー)と懇意になり、関西に本社を構えるある商社を紹介された。その商社が全国の生協への道を開いてくれたのだ。
「人とのご縁が次のご縁を生み、商売が少しずつ発展していったのです。生協との取引開始は、当社にとっては飛躍のきっかけになりました」(中嶋社長)
昔話の『わらしべ長者』のような展開であるが、関西の生協に「手揚げえび天ぷら」(冷蔵品)の納品を始めると(1987年)、他の生協からもオーダーが入るように。軟らかい食感を残すために手揚げにしていたことが功を奏して、「なかしまの天ぷらは、ふんわりやさしくて旨い」と評判になり、各地の生協が同社の天ぷらを扱うようになったのである。
旧城端町にある同社。五箇山に連なる山々から流れ出したおい
しい伏流水が豊富な地域にあり、周辺で採れた野菜などを食材
に使っている。工場の増設も検討中、とか。
この「手揚げえび天ぷら」が、ある有名ホテルの料理長の目に(舌に)とまり、「これはおいしい天ぷらだ。でももう一工夫したら、もっとおいしくなる」とほめられたのだ。プロの調理人からこう評されると、舞い上がってしまいがちだが、中嶋社長は「その一工夫をご指導ください」と料理長に冷静に懇願。そして「今後、当社の商品開発に際して、味の味匠(みしょう)の監修者になって欲しい」と依頼したのだ。
富山県出身ということもあったのか、料理長は、中嶋社長の理念の想いを快諾。“一工夫”とともに、地元の素材を生かした白えびかき揚げ丼の具についてのヒントを伝授したのだ。これを商品化した「富山湾産白えびかき揚げ丼」はヒット商品に。希少価値のある白えびを、富山産の野菜とともに2時間以内に揚げているため、「富山らしさが表現され、しかも旨い」と評判になり、高速道路のサービスエリアなどに口コミで広まった。さらにはJR、ANA、全国スーパー、外食チェーンに販売。また自宅でも白えびかき揚げ丼を食べたいという声が多数寄せられ、通販用の商品も開発したところ、中元・歳暮などのギフトに使うファンも増え、アジア向けやeコマースネットの展開も視野に入れているという。
天ぷらを始めてからの同社は、順風満帆に進んできたように見えるものの、この間、バブルの崩壊、リーマンショックも経験した。ご多分に漏れず、同社も売上を減らした時期があったというが、「いろんな方が私と当社を応援支援してくれたおかげで、谷を乗り越えることができた」ようだ。
ちなみに、味の監修者に就いたホテルの料理長は、全国料理研究大会で何度も最優秀賞を手にしたほどの“鉄人”。中嶋社長の食品づくりの姿勢に共感し、現役を退いた後も協力し、「ただおいしいだけでなく、食べてほっとするような味付けを心がけたい」と、同社の商品開発を側面から支援しているのだ。
地域資源ファンド事業の助成を受けて開発中の「まかない飯」に
ついては、試食会などを通じて寄せられた意見も生かして、レシ
ピも決まりつつあるという。鰤と野菜のまかない飯の次は、ベニ
ズワイガニと地野菜、イカと野菜のまかない飯も開発する予定。
“鉄人”の協力は、鬼に金棒のようなものだ。幾多の不況も乗り越え、このまま左団扇で……とは暢気(のんき)なサラリーマンの発想だろうか。ところが中嶋社長は、次のヒット商品を求めてネタ探しに余念がないのだった。
「魚を仕入れるために地元漁港の市場にも出入りしていますが、3、4年ほど前に、懇意にしている漁師さんに誘われてお宅にうかがい、朝ご飯をごちそうになりました。鰤、タケノコ、ごぼうなどをイシルで煮込んだものをご飯にかけ、何杯もお代わりしていました。漁師さんは『これがウチのまかない飯だ』と白い歯を見せていましたが、これが本当にうまかった。その時、これをなんとか商品化できないか、と思ったのです」(中嶋社長)
イシルは魚を原料にした醤油だ。「魚醤」とも書く。漁師さんは自家製のイシルで調理していたためコクのある煮物にでき上がったのだが、その味をどう再現するか。料理長にアドバイスを求めるとともに、商品開発でかつて指導を仰いだことのある富山県食品研究所にも声をかけ、調理法や一緒に煮込む野菜の選定など、レシピの開発に乗り出した。その際心がけたのは、食材はなるべく地元産を使うこと。それは食品問屋や金融機関に支援されたかつての経緯から、「地元産を使うことが恩返しであり、何よりの地域貢献」という中嶋社長の思いを形にすることでもあった。
主な食材は、野菜は玉ねぎ、里いも、タケノコ。それぞれ、砺波、南砺、高岡や射水で産地化・特産化が進んでいる。また魚介類は富山湾で水揚げされる鰤、ベニズワイガニ、イカなどをメインにすることを決めた。こうして下準備を進めていたところ、県の食品研究所の担当者が「地域資源ファンド事業を活用して、商品開発に弾みをつけたらいいのでは」と打診してきたのだ。
そして認定を受けたのは2014(平成26)年11月のこと。テーマは「富山県産の魚や野菜を活用した『混ぜご飯の素』の開発・製造・販売」で、添加物をいっさい使わず「富山らしい混ぜご飯の素」をつくることが目標に掲げられた。
「初年度はレシピの確定と原料の確保、2年目は包装や販促ツールなどを準備し、それらを踏まえて最終的な商品化を考えていきます。レシピについては、試作段階のものを取引先の方々に召し上がっていただき、軌道修正を加えながら着々と準備を進めています」
中嶋社長はコンセプトについては具体的にイメージしているようだ。展示会などでも一部発表したところ、生協や食品スーパーからは「総菜として扱いたい」という声が。ある商社の食品部門からは「おにぎりの具に使いたい」というアイデアも寄せられ、「早く商品化してほしい」と熱望されている様子。販売については従来の流通チャネルからの要望もあり、ある程度の量は見込めるものの、課題は「年間を通じての素材の確保」にあった。
「事業を始めてから、“食材が手に入りませんので、養殖の鰤を使います。海外産の里いも、タケノコを使います”では信用を落としかねません。『富山湾産漁師のまかない飯』と謳うからには、地元の食材を生かしてお客様にお届けしたい」と中嶋社長は語り、「これは本当においしいですからリピートのお客様も増えるでしょう」と続けた。
中嶋務社長と社員の皆さん。「このメンバーで一度食べたら幸せ
だなーと思える商品づくりをしています」と中嶋社長はいい、
「当社の自慢と宝は社員です」と続けた。
さて、本稿のはじめの部分で「助ける側に回るまでに、同社は復活の歴史を刻まなければならない」と記した。その意味するところは、さまざまなご縁で会社を立て直すことができたことの恩返しを、力をつけてから支援する側に回って、困窮者の自立のお手伝いをするというもので、多くの経営者や仲間と交わる中で中嶋社長がたどり着いた考えの一つだ。
支援のその一例が、地元の障害者福祉作業所に通う若者たちを支援すること。4年前の夏に、福祉作業所の館長に出会ったことが事の始まりだった。
経緯をかいつまんで紹介しよう。福祉作業所では通所者の生きがい探しと、循環型の野菜の生産を考えていた。その際、野菜の破材などを発酵させて肥料にし、それで野菜を育てて、販売していく。福祉作業所ということで助成金を受けることを当たり前に思うのではなく、工夫して一部でも自立・自活できるようになりたい、というのだ。
中嶋社長は当時、玉ねぎを初めとする地元野菜の安定仕入を図っていたのだが、この話を聞いてひらめいた。地区の遊休地を活用して通所者に野菜の栽培、収穫、出荷を委託することができれば、彼らの自立に役立つ。それだけでなく、地区の高齢者が野菜の栽培を指導すれば、交流が生まれて地域の活性化にもつながる。南砺市や地元の関係者を交えて構想を明らかにすると、「ではやってみよう」と2008年から玉ねぎの栽培が始まり、2013年には県の「中山間地域チャレンジ支援事業」に採択されて、作付け面積を拡大。福祉作業所は今では、一連の事業を法人化して行うことも検討するまでになった。
また中嶋社長は、詳細は割愛するが東日本大震災の被災者支援を続けており、被災地で支援活動を続けている釜石と気仙沼のNPO法人が自活できるようにと、周辺地域での野菜の栽培も提案。その野菜を同社が購入し、NPOの活動資金に充ててもらおうというわけだ。
かつて中嶋社長は、借金に追われていた時は「おかね」の3文字が頭から離れなかったという。その呪縛からとかれたのは、地域貢献と「逃げない」という想いとご縁の中で仕事を広げることができたと気づかされたからで、中嶋社長は社員(なかま)との想いの実現とご縁も大切にするようになった次第だ。
連絡先/ 株式会社なかしま
〒939-1811 南砺市理休544
TEL0763-62-2174 FAX0763-62-3526
URL http://www.f-nakashima.com/
作成日 2015/08/07