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第45回 せんべいの田中屋

お客様の声に耳を傾けて商品づくり
富山らしさをせんべいに表現すると

人気の「有磯せんべい」の中の白えびせんべい。白えびの姿を崩さない
よう、せんべいに焼き込まれている。

 ここに1枚の白えびせんべいがある。中には白えび1匹がまるごと焼き込まれており、見るからに贅沢な一品。封を開けると、えびの香りがあたりに満ちてくる。
 白えびは「富山湾の宝石」の異名を持つ。商業利用が可能なほど水揚げされているのは富山湾のみで、その加工品はさまざまに展開されている。白えびせんべいもその一つだ。ただ今回の取材先、田中屋のせんべいのように、白えびが1匹まるごと用いられているのは珍しい。そのため同店の白えびせんべいは類似品の中でも人気が高く、JR富山駅の土産物販売コーナー「とやま駅特選館」(改修前のステーションデパート含)では、ほたるいかや紅ずわいがになどのせんべいとセットにされた「有磯せんべい」は、“一目置かれる存在”なのだという。
 今でこそ、せんべい屋としての地歩を築いた田中屋であるが、ここに至るまでにはさまざまな紆余曲折があったようだ。

菓子問屋から菓子メーカーに転身

「お客様のナマの声を聞くことと、商品のブランド化に努めて
きた」と話す田中健一社長。

 創業は昭和3(1928)年。現社長・田中健一氏の祖父が、40歳の時に起業した。
 「菓子問屋の三男だった私のおじいさんは、兄2人とともに家業の切り盛りをしていたそうです。そうした中で、40歳の時に独立して田中定三商店を起こし、実家の支援を受けつつも、実家とは商圏が重ならないよう配慮しながら菓子問屋を営んだそうです。当時、甘いものはたいへん珍重されたと祖父母から聞いています」
 田中社長は、記憶をたどるように語り始めた。
 今日では、さまざまな和・洋菓子の他にスナック菓子が満ちあふれているが、当時は、砂糖そのものが貴重品の時代。氷砂糖や金平糖(こんぺいとう)など、砂糖を少し加工しただけの菓子も輝いて見えたそうだ。そうした中での創業だったため、順風満帆の船出だったという。
 しかしながら創業の翌年、逆風が吹き荒れた。80年後のリーマンショック(2008年)とは比べものにならない大嵐・世界恐慌が日本にも襲いかかってきたのだ。金融機関の倒産が相次ぎ、田中定三商店でも預貯金が戻ってこないケースがあったとか。創業者の苦労は並大抵のものではなかったという。
 恐慌から4、5年もすると世の中は落ちつき、商売は徐々に軌道に乗り始めたが、しばらくすると今度は軍靴の音が聞こえるように。統制経済によって砂糖の流通が制限され、また2代目は戦地へと招集されてしまった。菓子問屋を再開したのは昭和26(1951)年のことだ。
 「私の父親が、菓子問屋を再開したのですが、終戦からすでに6年が経ち、相当の出遅れ感がありました。かつてお菓子を卸していた小売店などは他の問屋に取り込まれていました。またそれからしばらくして食品スーパーが現われ、小売店は徐々に淘汰されるようになったのです。その結果、小売店に卸すことを専業にしていた問屋の多くが存続の危機に見舞われ、生き残りのための方策が模索されるようになりました」(田中社長)
 いち早くスーパーに卸すように路線転換した問屋もあれば、複数の問屋が合併して、小売店向けに事業の継続を図った例もある。田中商店(2代目の時の商号)の場合は……。同店では規模を縮小しつつも小売店に卸すことを続けてきたのだが、昭和50年代に入って限界が見えてきた。そこで選んだのは、多くの同業者の選択とは異なり、菓子メーカーに転身することだった。

ステーションビルに小売り部門を

本店の設計やディスプレーについても、専門家派遣で指導を受けた
講師に助言を受けたという。

 「先代は一時、商売から一切、手を引くことも考えたようです。でも私は、おじいさんの代から続く菓子業界とのご縁を途切れさせたくはありませんでした。そこで親父を説得して、菓子メーカーとして活路を見いだすことにしたのです」
 時は昭和55(1980)年。30歳の田中社長は、会社の命運をかけて舵を大きくきったのだ。
 ひと口にお菓子といっても、さまざまにある。田中社長が、最初に商品化したのは飴玉だ。次には立山の形を模した落雁(らくがん)やゼリーもつくったが、試行錯誤の連続ですぐ利益には結びつかなかったという。せんべいも商品化したお菓子のひとつだ。これが意外と評判がよく、手土産に買って帰られる旅行客が多くいたという。販売は、問屋時代に培ったネットワークを活かして、富山駅周辺の土産物店などに委託していたのだった。
 転機は昭和63(1988)年に突然にやってきた。問屋時代、かつて商品を卸していた富山ステーションビルに入居していたあるお店が、「事情があって撤退する」という情報が寄せられ、ビルの管理者から「テナントとして入りませんか」と田中社長に打診があったのだ。
 直営の小売部門を持つことは、菓子メーカーとして再出発を果たした時からの夢でもある。ましてやステーションビルという一等地。「来月からでも……」と即OKの返事をしたいところだが、テナント料など1店単独での入居には厳しいところがあった。そこで同業者にも声をかけ、7店共同で出店して賃料や店員の人件費などは等分で負担することにしたのだ。
 「駅に小売店を置くのにこだわったのは、お客さんの反応や要望を聞きたかったからです。問屋時代にも、商品を卸していたステーションビル小売店の店員に、『お客さんから、こういう商品はないかと尋ねられた』『あのお土産が人気なのは、お客さんにこういうところが気に入られているから……』と生の声を聞かせてもらいましたが、そこには商売や商品開発のヒントがたくさんありました。そこで、テナントとして入る話しがあった時、意識してそういう情報を集めさせることができる、と思ったことを覚えています」
 田中社長は、本店以外での直営の小売店を持った時をそう振り返るが、残念ながら入居して半年で3店が撤退。最初から一等地は与えられず、期待したほど売上げが伸びなかったようだ。

富山らしさ、田中屋らしさを追求

田中屋において最も人気の高い「有磯せんべい」の
セット。

 残った4店は、店員の数を減らしたり、撤退した3店分のテナント料の免除をビル管理者と交渉したりと、駅で店を構え続けるために歯を食いしばった。費用の負担は、7店の時より多くなったが、田中社長らはステーションビルでの商売の継続を選んだわけだ。
 「当店が製造・小売りにこだわったのは、ひとつには粗利を確保するという側面があります。製造・卸しだけは利幅は限られています。また駅での小売りにこだわったのは、そこが貴重な情報収集の場であることが従来にも増して実感できたからです。ステーションビルの売り場は、正にアンテナでした。そこでお客様の声をナマで聞くことができたからこそ、お店を今日まで続けることができたと思っています」。田中社長はそういって、「その象徴的な最初のお菓子が『チューリップせんべい』です」と続けた。
 このせんべいは、平成5年に商品化されたものだ。関東の硬いせんべいと違って、小麦粉を使っているため軟らかくて食べやすく、またチューリップの花びらが焼き付けられているため、“富山土産”ということが容易に想像できる一品だ。
 その商品化に当たって田中社長が留意したのは、お客様が求めた「富山らしさ」を表現したお菓子ということ。後に商品化される「おわら風の詩」や「有磯せんべい」も基本的なスタンスはそこに置き、なおかつ「田中屋らしさ」を加味することにこだわった。いわゆるブランドづくりの視点で商品開発に努めてきたわけだ。
 「どこにでもあるようなものでしたら、お客様になかなか選んでいただけません。数あるお菓子の中から当店の商品を選んでいただくためには、田中屋なりの特長を表わしていかなければなりません。チューリップの花びらを焼き付けたり、1匹まるごと白えびを使ったりしたのは、他店との差別化を図るためにお客様の声に耳を傾けた結果のことなのです」(田中社長)
 そのおかげか、「チューリップせんべい」は翌平成6年の全国菓子大博覧会(第22回大会)で菓子博大賞を受賞。その後は、県内でチューリップが花盛りの頃には最も売れる土産物に成長するまでになったのだ。また後に商品化された「おわら風の詩」、「有磯せんべい」、「幻魚(げんげ)せんべい」、「草楽(そうらく)せんべい」なども菓子博で表彰されるのだが、お客様の声に耳を傾けようとする姿勢の賜物といっていいだろう。

駅を縁に2度目、3度目の変化

富山市の問屋センターの近くに建つ田中屋本店。

 ステーションビルに小売部門を構えて10年ほどした時のことだ。とやま国体(平成12年)の開催を前に、ビルを大幅にリフォームし、県外からの来訪者を迎える準備を進めようという計画が持ち上がった。もちろん土産物の販売コーナーも対象で、躯体は残すものの、フロアーは一新する計画だった。
 「デベロッパーや菓子組合でお世話になっていた先輩の取り計らいもあり、今まで片隅で商いしていた私たちも、中央の一等地に出店する道が開けました。しかしそこで困ったのがディスプレーや演出のノウハウでした。どこかに相談したいと悩んでいた時、知人に新世紀産業機構の中小企業支援センターを紹介され、さっそく訪ねました」(田中社長)
 田中社長から相談を受けた支援マネージャーは、専門家派遣制度を利用して、店舗のディスプレーや商品構成に詳しい専門家の指導を受けることを提案。国体を控え、県を挙げてホスピタリティーの涵養を目指している時でもあったため、「お客さんとのコミュニケーションが図りやすく、また商品に親しみやすい店先づくりを心がけた」のだそうだ。
 その専門家には、のちには田中屋本店を新築する際、さらには北陸新幹線開業にともなう新しい駅ビルの土産物コーナーでの田中屋も入居する共同店舗の設計も依頼するように。新幹線の売り場の方は、開業を数カ月後に控えて最後の詰めに入っているようだ。

補助事業で新商品、4代目も商品開発を

とやま中小企業チャレンジファンド事業」(平成26年度)の採択を
受けて進められた、ぶりとばい貝のせんべいと、12月より一新した
パーッケージ。

 同社ではまた北陸新幹線の開業を控えて、人気の「有磯せんべい」のパッケージの一新を試みるとともに、ぶり、ばい貝等の新種を加え、シリーズの充実を図ることを企画。平成26年度の「とやま中小企業チャレンジファンド事業(ビジター対応ビジネス支援事業)」の採択を受けて、年度当初よりその開発に努めてきたところだ。
 「カワハギやイワシのせんべいも試みましたが、試食していただいて評判がよかったのは、ぶりとばい貝でした。この2つはさっそく商品化を決め、通年で原料が入手できるよう手配したところです」(田中社長)
 一方のパッケージの方だ。従来の個包装は共通の袋にシールを貼る方式を取っていたのだが、補助事業で本格的なデザイン開発に取り組むことができたため、商品パッケージに詳しいデザインスタジオの協力を得て、せんべいの種類ごとの袋を制作。商品名のロゴの開発から取り組み、化粧箱用の包装紙も新しくすることにしたという。
 こうして店頭がにぎやかになりつつあるところに、さらなる朗報が……。和菓子職人として修業の旅に出ていた息子さん(4代目の予定)が帰郷し、田中屋に和菓子部門「和スイーツ健太郎」を創設。昨年(平成25年)よりオリジナル商品の開発を試み、本年度に入って品数が多くなってきた次第。田中屋に新しい歴史が刻まれることになったわけだ。
 ちなみに総務省の「家計調査」の項目に、せんべいの消費量(1世帯/年間)がある。栄えある第1位は栃木県の8,709円。以下、茨木(7,543円)、千葉(7,289円)、奈良(7,078円)、埼玉(6,848円)と関東勢が健闘し、少しおいて12位群馬(6,358円)、15位東京(6,196円)、16位神奈川(5,918円)と続いている(「家計調査2012」。富山県は6,677円で10位)。関東の方は、草加の硬いせんべいがお好みかもしれないが、“富山湾の珍味を焼き込んだせんべいもまた旨し”と、田中社長は北陸新幹線開業による需要の拡大を期待しているところだ。

せんべいの田中屋(有限会社田中商店)
富山市上冨居1-8-33
TEL076-451-8066 FAX076-451-8092
事業内容/和菓子の製造・販売
従業員/7名
URL http://tanakaya123.com/

作成日  2014/12/01

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