TOP > 未来を創るアントレプレナーたちの挑戦 > 第49回 株式会社岡本(呉服の岡本)
「着物は文化を継承する」の意識でお店を運営
それを下支えする和装小物も開発して……
呉服の岡本正面のたたずまい。
富山で、着物をこよなく愛する方であれば、「呉服の岡本」と聞くと「あの『信用』を大事にするお店」とすぐにピンとくるであろう。創業者の岡本長次郎さんは、まさしく「信用」の二文字に羽織袴を着せたような御仁だった。それを表すエピソードもたくさん残されている。例えば商売にあたっての心構えとして、家族には口が酸っぱくなるように繰り返した。いわく……。
「米びつ空でも問屋に支払え」
仮に今日、明日食べる米がなくても、問屋への支払いを優先せよ、というのだ。昭和も中頃までの呉服業界では、支払いは「ある時払いの催促なし」といわれ、盆暮れの2回の支払いが一般的だったが、同店では創業時(明治43(1910)年)から、先の言葉を家訓のように守り、「月末締めの翌月現金払い」を続けてきたのである。
これを続けるとどうなるか。
「いい品物が入ったら、岡本さんに真っ先に見てもらいたい」と問屋は思うようになるだろう。創業者は、問屋に信頼されるそういう小売店を目指したのだ。
平成23年に呉服の岡本創業100周年記念として開催された「有職
織物展 人間国宝 俵屋十八代喜多川俵二」の広報で用いられた
パンフより。
同様にお客様からの信用も大事にしてきた。創業者の薫陶を受けた二代目のエピソードを紹介しよう。同店では、皇室の儀式用の装束を手がけられる人間国宝の喜多川俵二氏をはじめとする著名な作家の作品も扱っていて、平成14(2002)年に「喜多川平朗・俵二有職展」を開催。個人の呉服店としては極めて異例なことで、それゆえにうがった見方をする人もいたようだ。
いわく「人間国宝の作品にしては安すぎる。他店はもっと高い。岡本は偽物を売っているのではないか」と。その時、喜多川俵二氏が「たとえ人間国宝の作品でも、お客様の手の届かない価格では意味がない。すべての呉服屋さんが、岡本さんのような価格で販売してくれればうれしい」と助け舟を出してくれたそうだ。編集子なりに意訳していうと、一方には“法外な値段をつけ、お客から暴利をむさぼっていたお店もあった”ということか。「呉服の岡本」はそういうこととは一切無縁で、二代あるいは三代にわたるお客様家族との付き合いも多いという。
こうした創業者(祖父)、二代目(父)の背中を見て育ってきたためか、後を継ぐ三代目の姉妹は早くからサービス業を志すように。今回取材させていただいた妹の岡本倫子さんは、誰もが知っているテーマパークやブランドのショップで接客を基礎から学んだ後に当店に入ったのだが、「着物の文化を継承していくことが当店の務め」と意気軒昂な一面を示しつつも、それを下支えするための和装小物の開発に乗り出し、呉服業界に一石を投じたのだった。
「きもの柔肌着」(ワンピースタイプ
¥22,000+税、セパレートタイプもある)
その和装小物とは、通気性に優れ、敏感肌の方に向けた和服用肌着。岡本さん自身がもともと敏感肌で、そういう肌着が欲しかったという一面もあったようだ。
「以前から、衣類の縫い目などでこすれただけで肌がかゆくなっていたのですが、40歳を過ぎたあたりからもっと過敏になりました。汗をかいたところをポリポリ掻くと、真っ赤にミミズ腫れになりました。それで東京に行った時に、デパートの呉服売り場で『敏感肌用の綿の肌着はないですか』と尋ねてみると『あったら私も欲しい』と返ってきたのです。そこで、では自分でつくって、商品化してみようと思ったのです」
岡本さんが回想するのは平成24(2012)年前後のことだ。ただ「自分でつくる」といっても、当初、アテがあった訳ではない。それまでの経験は小売業・サービス業に限られ、ものづくりの経験は皆無であった。また新しく事業を立ち上げることも初めてで、何から手をつけたらよいのかと迷うことも多々あった。
そこで岡本さんは平成25年度の「とやま起業未来塾」を受講することに。敏感肌用の肌着のビジネスプランを練り上げようと半年にわたって講師陣から特訓を受け、またその中で知遇を得た講師や当機構の支援マネージャーから、糸や生地のメーカー、そして型紙や縫製の職人などを次々に紹介されたのだ。
結果としてみると、糸は県内の紡績工場で生産される超長綿糸と県内の問屋が扱っていたインドの高級コットンを使用。繊維メーカーの協力を得て、この2種類の糸を交互に織った生地を開発。設計は、立体裁断の第一人者として知られる県内のスポーツ衣料メーカーの熟練の職人に依頼し、縫製も縫い目が肌に当たらないよう加工し、裾の形を工夫して動きやすくする配慮も施した。
「中空の糸を使っていますから通気性がよく、また滑らかな糸ですから、生地は絹のようです。化学繊維の類似品に比べて肌への刺激は断然減りました」と岡本さんは新しく開発した肌着(商品名「きもの柔肌着」)の特徴について語るのだった。
現代の名工に認定されている職人が設計しているため、
縫い目が肌にあたらない。
その開発に当たっては、「小規模事業者活性化補助金」(25年度)や「中小企業・小規模事業者ものづくり・商業・サービス革新補助金」(25年度補正、ともに経済産業省)の採択を受けたのだが、小売業やサービス業の経験しかなかった岡本さんにとっては新鮮な一面もあったようだ。
「サービス業ではお客様がこられるのを待っているだけですが、製造業では素材や技術を持っている人を探し、それを結びつけていく。柔肌着の開発に当たっては、一時、関西の企業を何社も訪ねましたが、支援マネージャーから『富山県内に一流の技術を持つ企業があり、また品質のよい素材を扱う問屋もある』とアドバイスされ、マッチングの段取りもしていただきました。そういうご縁でできたネットワークの中から、今まで誰もつくれなかった敏感肌用の肌着をつくることができたのです」(岡本さん)
「きもの柔肌着」の販売のメドが立ったのは平成28年1月のことだ。何度も改良を重ね、所期の目的どおりの生地ができた。未来塾の受講(25年度)と並行しながら生地の開発を試みていた頃は、「年間数百枚の販売ができれば……」と青写真を描いていたそうだが、原料の仕入から縫製までの態勢を確立した今日では「数年先には年間1,000枚程度の販売を目指したい」と販路開拓に余念がない。
手始めに、昨年(平成27年)6月には「きもの柔肌着」の企画製造を担当する会社として(株)岡長商店を設立。メーカーとして責任の所在を明らかにするとともに、小売店である「呉服の岡本」に、他の着物小売店や問屋が声をかけるのはばかられるのではないか、という配慮から別会社を立ち上げたのだ。
昨年秋に開催された「北陸ビジネス街道2015」では、当機構のブース枠で出展し、加賀友禅の作家の紹介により元ミス加賀友禅と出会い、柔肌着のパンフレットに推薦文を寄せてもらうことに。年末には、地元の新聞やテレビで「きもの柔肌着」の開発が進んでいることが報道され、予約の連絡も入るようになった。また神奈川県の和装業者もウワサを聞きつけて扱うようになり、この取材の時点(2月初旬)では二十数名の方が予約待ちで縫製が上がるのを待っているという。
「きもの柔肌着」に取り組む岡本倫子さん。
さて、実際の販売は緒に着いたばかりだが、メディアに取り上げられるのを好機と捉えて一気に拡販するのではなく、着物文化を支える肌着と位置づけて、末永く販売していく所存だ。ここでまた創業者・岡本長次郎さんのエピソードをひとつ。
オイルショック(1970年代に2度)の時のことだ。年配の方は覚えているだろうが、トイレットペーパーがなくなるという噂が飛び交ってスーパーの店頭で奪い合いになったものだ。呉服店もその嵐に飲み込まれていたらしく、白生地も値段も高騰し、それでも飛ぶように売れたという。呉服店の多くは高値で多くの着物や反物を売りさばいたようだが、長次郎さんは「日本から着物がなくなることはあり得ません。この熱が冷めるまで少し待ってください。値段も落ち着きますから……」と商品を一切販売しなかったという。
そしてオイルショックのパニックが治まってしばらくして、長次郎さんの対応は高い評価を得、顧客からの信用をますます高めたそうだ。
商品を売らずに店の信用を高めた例は少ないのではないか……。
そう思いながら、孫の岡本倫子さんが始めた「きもの柔肌着」を改めてみると、「着物の文化を下支えするよい肌着だ」と長次郎さんが泉下で微笑んでいるように思えてきた。
株式会社岡本(呉服の岡本)
富山市上本町7-12
TEL076-425-1714
事業内容/着物、和装小物の販売
URL http://www.gofuku-okamoto.com/
株式会社岡長商店
TEL076-456-4999
URL http://www.okacyo.jp/
作成日 2016/02/22