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とやま産学官金交流会2010  

大変革期におけるものづくり企業の経営戦略と産学官金連携
新世紀に入って10年。世界経済の大きなうねりの中で、県内企業も大変革期を迎えています。そこで求められるのは、従来にも増した産学官金の連携と、そこからのイノベーションの創出。また海外での取り組みも課題になり、世界を見据えた経営戦略が必要になってきます。本年度の「とやま産学官金交流会」では、そこに焦点を当てました。基調講演、分科会、そしてポスターセッションの概要をお知らせします。  


基調講演
「ホンダDNAを継承して海外事業に挑む」~中国事業立ち上げの経験を例に~ 
桃山学院大学客員教授
広州本田汽車有限公司前総経理  門脇 轟二 氏

 ホンダは1948年に創業、本田宗一郎、藤沢武夫のコンビによって発展してきた会社。ホンダの創業時、日本には100社を超える2輪車メーカーがあったが、その中でホンダは、「日本だけを相手にした日本一は真の日本一ではない。世界一であって初めて真の日本一となり得る」と世界的な視野に立って仕事を進めることを宣言。1952年のことである。
 そして2輪車最高峰のレース、イギリス・マン島のTTレースへの出場を宣言し、1961年のレースでは、125~250ccまでのクラスで、ワン、ツー、スリーフィニッシュを達成。更に「需要のある所で生産する」というホンダの方針に沿って、1964年にはベルギーで2輪車生産を開始。
 ホンダは「良品に国境なし」すなわち「良いものを造れば、世界のお客様に受け入れてもらえる」と考えて、積極的に海外進出を検討。普通であれば手近な東南アジアの市場を念頭に置くが、ホンダは敢えて「アメリカこそホンダの夢を実現できる主戦場である」とアメリカへの進出を決め、1959年、アメリカに販売現地法人を設立、自前の販売網を作り上げた。
 当時のアメリカの2輪市場には、アウトローの悪いイメージがあったが、苦心惨憺の末に、“You meet the nicest people on a HONDA”というキャンペーンを展開、アメリカにおけるファミリーバイクの市場を生み出した。
 「需要はあるのではなく、創り出すものである」との信念の具現化と言える。


1993年の香港駐在が中国ビジネスのスタート

基調講演される門脇轟二氏
 私がホンダに入社したのは1965年、爾来、海外営業の仕事に携わってきた。1976~79年ベルギー、1982~87年アメリカ、1987~91年カナダに駐在した。
 この間、1970年代には2度にわたるオイルショックがあり、BIG3はそろって赤字に転落。一方、日本のメーカーは経済性と品質の良さでアメリカ市場にどんどん浸透していった。そのきっかけは、排ガス規制を定めたマスキー法が1970年に立法化されたことにある。世界の自動車メーカーは、新しい法律の下、同じスタートラインに立って技術開発することになり、最後発であるホンダにも、チャンスが巡ってきた。ホンダは技術開発をここに集中し、1972年にCVCCエンジンを開発。そのエンジンを搭載した小型車シビック、あるいは1976年に発売したアコードも、アメリカで大変高い評価をいただき、着々と地歩を築いていった。
 ホンダは「需要のある所で生産する」という考え方に基づき、アメリカでの4輪生産を1970年代初め頃から検討してきた。勿論、4輪の生産工場を造るには、大きな投資が必要になり、余りにもリスクが大きいということから、先ずは、オハイオに2輪工場を立ち上げ(1979年)、その状況を確認した上で4輪工場をスタートさせた(1982年)。またそれに伴って、アメリカでの拡販を念頭に置いて、第2販売チャネルACURA(アキュラ)を設立した。
 1982年12月、私はアメリカンホンダの駐在になった。先ずそこで手がけたのは、カナダでの工場建設プロジェクトである。
 年産4万台規模の工場を造る条件について、カナダ政府との交渉を担当。ホンダでは、FTA(Free Trade Agreement=自由貿易協定)やNAFTA(North America Free Trade Agreement=北米自由貿易協定)に先駆けて、アメリカへの輸出を前提にカナダに4輪工場を造ることを考えた。カナダ工場の建設については、1984年に発表した。
 その後すぐに私は、アメリカンホンダの本社に帰って第2販売チャネル「アキュラ」の設立プロジェクトに参加。1986年4月、全米57店のアキュラディーラーを立ち上げることができた。
 そして1年経った所で、カナダホンダへの異動を命じられた。カナダホンダも、北米生産に合わせてアキュラチャネルを設立していたが、カナダのラグジュアリマーケット(高級車市場)はアメリカの10分の1で、アキュラ部門を別に設けることについてはかなりのリスクがあり、事実、過剰投資と販売不振によりディーラーから相当のクレームが出ているような状況であり、ホンダカナダの経営もかなり厳しい状況にあった。
 解決の糸口は、如何に台数を沢山売るかということである。そこで販売を営業部門のみに任せきりにするのではなく、社内の全部門が皆で知恵を出し合って販売していく体制を考えた。そこで皆に提案したことは、基本的なことを先ずきちんとやろうということであった。すなわち、発売前にディーラーの店頭に新車が2~3台展示できるようにすること。同時にポスター、カタログ、サービスマニュアル、パーツリスト、イニシャルパーツ等が確実に準備できること。それらの準備状況を、ニューモデル発表6か月前から、カナダホンダの全マネージャーが参加する発売準備会議で確認することにした。
 準備会議では、色々なアイデアが出た。部品担当のマネージャーは中国系の人で、「この車は中国の若い人たちにうけるだろうから、中国語の新聞に広告を出したらいい」と。当時カナダでは、香港・中国からの移民が大変に増えていた。また他のマネージャーは、全国一斉の発表会を各ディーラーで開き、そこにホンダカナダのメンバーを派遣したらどうかと提案等々。こうしたアイデアを結集し全部門が営業活動に参加をした結果、社内の士気も上がり、1986年、年間6万台の販売であったものが、3年後の89年には10万台を達成した。アメリカ・カナダでの経験は、色々な意味でそれ以降の私の仕事の糧になった。
 日本のバブル崩壊後の1991年に帰国した私は、1993年3月に香港駐在の命を受け、結果として2004年4月までの約11年間、中国で仕事をすることになった。私は、「この仕事が私のホンダ人生の最後の舞台になるだろうから、今まで自分が経験したことを基に、自分なりの考え方を実現してみよう」と考えた。私へのミッションは、「中国でのホンダの事業(2輪・4輪事業)の将来性を考える」ということであった。当時ホンダは、2輪生産の分野では既に3つの合弁会社を中国に持っていたが、4輪車については手つかずだった。
 1995年に私は香港から北京に移動、中央政府の自動車産業政策の担当者との意見交換に努めた。その前年から、広東省恵州市でホンダは東風汽車との自動車部品生産の合弁事業をスタートしていた。1996年末、東風汽車の副総経理が、北京の私のオフィスに訪ねてきて、「広州プジョーからプジョーが撤退する」という話を持ち込んできた。私はこの話に大変興味を持った。


海外で仕事をするに当たっての心構え

 ここで私自身が、14~15年にわたって欧米で仕事をしてきた中で考えた、「海外で仕事をするに当たっての心構えに」ついて紹介する。
 その第一番目は、「仕事をするその国を好きになること」。
 一般に我々日本人は、欧米については畏敬の念で見る傾向がある為、このことはあまり議論にならない。ところがアジアの国、とりわけ中国の場合はどうであろうか。かつて日本は中国から先進的な文化・文明を輸入して、それを昇華・融合して日本独自の文化を形成してきた。その点で中国は、日本にとっては長く尊敬すべき対象であった。
 ところがある時期から、日本人の中国を見る目が変化した。そのきっかけは1840年に始まったアヘン戦争ではないか。西欧帝国主義に蹂躙される中国を見て、「これから学ぶべきは中国ではなく、西欧ではないか」と考え方が変わった。このような西欧文明に刺激を受けたことが原動力となって明治維新が興き、日清・日露の戦争、更には日中戦争、第二次大戦へと続き、この過程で日本の中に、中国に対する見方の変化が起こってきたのではないか。その国の歴史文化を学び冷静に見つめ、その国を好きになることが第一歩ではないか。
 二番目は「その国の人と目線を合わせ、一緒に仕事をすること」。
 つまり現地の人たちの意見に謙虚に耳を傾け、コミュニケーションを図って仕事をしていくこと。最近ホンダも、これに関連した話題を提供している。一つは中国におけるストライキの問題。このホンダ系の会社は、日本サイド100%出資の独資。ストの原因は恐らく、現地の人たちとのコミュニケーション不足。
 海外で仕事をする場合、独資は合弁会社に比べて自分達だけの考えで仕事を進めることができる、という利点は確かにある。収益も独占できるであろう。しかしながら、ともすれば独善的になりやすく、ある意味、大きな落とし穴に落ちる可能性が潜んでいるのではないか。その国の状況が良く解らない場合、その国の人たちの声に謙虚に耳を傾け、その国の人たちの力を最大限に引き出す努力が必要ではないか。
 三番目は、「自分の考え方をしっかり持って信念を貫くこと」。
 日本では「以心伝心」とか、「オレの目を見ろ。後は何も言うな」で通じる所もあるが、異文化の世界ではこれは通用しない。自分の考えを、相手に理解して貰えるよう論理的に説明することが重要。しかも一度表明した考えは、簡単に曲げないこと。日本の企業では、ともすれば本社の意向が強く、かなり細かいことまで指示をしてくる傾向がある。その結果、出先では朝指示したことを夕方には変えるという朝令暮改現象が往々にして起きる。こういう姿勢は、現地の人たちの信頼を損なうことになる。一度決めたことは、3年間は変えない位の気概で臨むことが重要。
 四番目は、「短期的に結果を求めるのではなく、中長期的な観点で、お客様にとって何がベストかを基準に判断すること」。
 日本では、少なくとも1980年代までは、中長期的な考えの下に企業の将来の発展を見据えて判断してきたのではないか。ところが1990年代に「成果主義」「株主至上主義」といった経営理論が入ってきて、短期的な株主利益の最大化に焦点が当てられるようになった。その結果、本来、日本が持っていた良さを見失ったようだ。海外で事業展開する場合、現地のお客様のニーズをベースに、中長期的な利益を基準に判断していかないと、事業はうまく展開できないのではないか。


まずは箒(ほうき)を持った日本人技術者たち

 1996年12月、「広州プジョーからのプジョーの撤退」が伝えられ、「その後を受けて、ホンダが4輪の生産をしないか」と打診された。この話を聞いた時、ホンダにとって四輪生産を進めるまたとない機会であり、と同時に私個人としても「海外で仕事をするにあたっての心構え」を私なりに具現化する良い機会だと考えた。
 広州プジョーは、中国の自動車産業政策「三大三小」の小の一つ。生産規模は、最初は3万台、最終的には5万台と比較的小規模だが、国の認可を得ている点で、今後の展開がスムーズにいくことが予想された。また「小さく生んで大きく育てる」というホンダの考え方にも合ったもので、その後の市場の発展に応じて拡大していくことも可能ではないかと考えた。
 当時の中国の乗用車市場は、公用車・タクシーが需要のほとんどであったが、将来市場が拡大していくとしたら改革開放・市場経済化の波に乗って登場してくるであろう富裕層が牽引車になるはず、先ずはその富裕層をターゲットに、高級乗用車アコードを投入すればうまくいくのではないかと考えた。
 当時の中国では、完成車の輸入には80%の関税がかかり、輸入車アコードは42万元前後(約600万円)の販売価格であった。現地で生産して、部品の国産化率40%を達成した場合は、残り60%の輸入部品の関税は40%になる。アコードの場合には、部品の国産化率40%を達成すると、30万元を切る販売価格が設定できるのではないか、そうすれば「3万台は何とかなる」と考えた。
 これらをホンダの経営陣に報告し、広州での4輪生産プロジェクトが動き出した。
 旧広州プジョーを訪問した時、敷地に入って思わず足が止まった。工場の壁は白く塗装されていたが、くすんでカビだらけ。窓ガラスは半分以上が割れ、食堂は照明がほとんど壊れていて薄暗く、テーブルはあったものの椅子はほとんどない。従業員は薄暗い食堂で立って食べるか、あるいは職場に持ち帰って食べている。
 工場のトイレも、半分は壊れていて、掃除もされていない。工場の中もゴミだらけで、とても自動車を生産できる環境ではなかった。そこで思わず口をついて出たのが、「入れる所と、出す所は私の責任で何とかしますから、その間は皆さんの手で綺麗にして下さい。クリーンな環境なくして良品なし」。
 私としては「従業員の皆さんの職場環境・処遇を抜本的に変えなければ、自動車生産どころではない」という思いだった。
 幸い、工場の敷地の中央に、建設途中で放棄された建物があった。それを活用して3階建てのビルを完成させ、1階はお客様を迎えるレセプションルームと全従業員のロッカールーム、2階は大部屋の総合事務所、そして3階は一度に1,000人が座って食事ができる食堂にした。
 工場の中も、私と一緒に赴任した技術者集団が箒を持ち、掃除を始めた。くる日もくる日も箒を持ち、2週間掃除を続けた。
 ホンダには現場、現物、現実の「三現主義」という言葉がある。問題が起きたらまず現場に行って、現物を見て・触って、現実的に解決していく。我がホンダの技術者集団は、率先垂範して掃除をし、自ら手を動かして工場の改造に取り組んだ。しかし工場にある設備の大半はフランス製か中国製、日本の技術者が見たことも触ったこともないもの、図面もフランス側が持ち帰ってなく、補修用の部品も管理されていない。それでも彼らは努力と工夫を重ねて、改造を進めた。
 日本の技術者たちのこの頑張りが、現地の人たちの心の琴線に触れ、日中の従業員全員が力を合わせて工場の改造に取り組むことができた。
「三大三小」/国際競争力のある自動車メーカーを育成するために1990年代に中国が採った自動車産業政策。三大メーカーは一汽VW(フォルクスワーゲン)、上海VW、東風汽車とシトロエンとの合弁の神龍汽車。三小メーカーは、北京ジープ、広州プジョー、ダイハツからの技術供与による天津汽車。これらを重点的に育成・発展させようとした。


毎日朝礼。そこで合意した事だけを社内外に…

 この合弁会社を運営するに当たって、私の最大の関心事はホンダフィロソフィーをどのように導入するかであった。この会社はホンダ50:広州汽車50の出資の合弁会社ではあるが、「ホンダの製品をホンダの技術に基づいて生産する訳であるから、当然ホンダの考え方をベースに進めるべきだ」と私は思っていた。しかし、それを一方的に押しつけてはいけない。現地の皆さんがホンダの考え方を理解し、「ホンダフィロソフィーでいこう」と自発的に言ってくれることが重要。そこで私は、私の海外での経験を従業員の皆さんに話すとともに、日本、アメリカ、そして中国の条件に近いタイの市場・工場を見学してもらい、ホンダフィロソフィーがそれぞれの市場で普遍的に具現化している実態を体感して貰うなどして、議論を進めた。
 広州本田汽車有限公司の社是・理念・運営方針は、多少の表現の違いはあるが、基本的にホンダのそれと変わらない。現地の人たちが「ホンダフィロソフィーでいこう」と合意してくれたからだ。
 これを推進していく為には、日中双方の意思疎通を良くしていくことが重要。幸い、この会社スタート時の総経理、副総経理は、合弁契約の交渉時から双方の代表を務めていたメンバー。
 そこで私はこの会社がスタートした日に「これから毎朝、30分でも1時間でもいいから、日中双方の総経理、副総経理の4人で朝礼をしよう」と提案した。「お互い歴史的・文化的な背景は違う訳だから、考え方が違うのは当然。時には議論の果てにケンカになるかも知れない。それでもいいからやりましょう」と。「ただ、この部屋から出て、社内外に会社の意思を発信する時は、我々がこの部屋で合意したことだけにしよう」。
 幸いにして、中国側役員もこの考えを受け入れてくれた。合弁会社では、これは非常に重要な事。トップが一枚岩であることは、従業員に対する強力なメッセージとなる。
 また経営上の意思決定についても、関係者が私の部屋にきて報告をし、そこで決済するのではなく、日中双方の総経理・副総経理、そして関係者全員が参加する、いわゆる評価会の議論を経て決済することにした。もちろん、全ての案件で意見が一致するとは限らない。ある時点で判断することになるが、大切なことは、判断が下された経緯を関係者全員で共有することにある。
 労働組合との関係についても、中国の労働組合は、日本の労働組合と若干違い、労使一体になって、福利厚生の向上に取り組む、と言っても過言ではない。しかも中国の場合は、総経理以外は全員組合員。副総経理の前や部長会で話したことは全て、組合側にも知られていると思って良い。そこで私は組合の委員長に、「毎週月曜日に行っている部長会に、私と一緒に出席してくれませんか。そこでは会社の方針を議論しているので、意見があったらいっていただいて結構です」と提案。その結果、組合との関係は極めて良好、以降の増産に伴なう残業や休日出勤、休日の振り替えなどについても、積極的に協力してもらっている。


販売スタート時、供給を上回る需要が…

 先ほど、ユーザーターゲットを富裕層に絞り、中国の輸入車市場で一定の評価を得ていたアコードを生産する事に決めたと話をした。しかもアコードの中で最も装備の良いタイプに限りなく絞って発売する。しかも後に述べるように、生産した車をほぼ全量販売店にアロケーションすることで、部品・完成車の在庫も最小限で、高効率生産ラインを稼働させることができ、結果として高収益を導き出した。
 旧広州プジョーは、事実上倒産した会社。経営陣が一新したとはいえ、普通のやり方でイメージアップを図るのは難しい。そこで我々は、大々的に発表・試乗会を催すことにした。当時、珠海近郊のレーシングサーキットが完成に近い状態にあったので、そこを借りて30台のアコードを用意して、中央・地方政府の指導者、お取引様、販売店候補、ジャーナリスト、そして一部のお客様代表に試乗していただいた。
 同時に1台のアコードを分解して、大きな講堂に全部品を並べ、部品一つひとつに「輸入部品」「現調部品」と表示して、皆さんに見ていただいた。中国の人びとが、1台の車を部品ごとにばらして見たのは恐らくこれが初めてで、非常に強い感銘を受けたようだった。試乗会で車の性能を体感していただいたことと合わせて、マスコミから、現調部品を使っている広州本田のアコードは、輸入車に負けない、あるいはそれを超える品質であると評価され、中国国内での認知度を一気に上げることができた。その結果、魅力的な価格設定もあって、発売するや供給を大幅に上回るオーダーいただき、販売店は納車待ちの状況となった。
 この大人気は、別な副産物ももたらした。ご承知のように中国でビジネスする際の大きな課題の一つは、代金の決済をどうするかにある。我々は、供給より需要が上回る状況を創ることができたので、前金決済のシステムをとり、送金をいただいた順に販売店に商品を配分していくことができた。


11年間の累計生産台数は、192万台

 私自身が考えている自動車ビジネスは、「自動車と言う消費財は、お客様に買っていただいてから3年、5年、場合によっては10年と長い間乗っていただくものである。その間、お客様に安心して乗っていただける環境をどうつくっていくか。それは徹底的なサービスをすることである」と考えている。買っていただいたお客様に高い評価をいただく、これが第一。そのお客様の声は、メーカーが莫大な費用をかけて行う広告・宣伝より、大きな力となって周辺のお客様に広がっていく。中国の自動車販売は、ある意味売りっ放しの所が多かったが、我々は、サービスを中心とした四位一体の特約販売サービス店を設立し、買って頂いたお客様へのサービスを徹底することで高い評価を得ることができた。
 広州本田の特約販売サービス店は、全店同じCIにして、お店のデザイン・外観を統一。ショールームは2階まで一枚もののガラス張り。ショールームの奥にメンテナンスや板金塗装を行うサービスショップがあり、ショールーム側のお客様待合室とサービスショップの間はガラス張りにして、お客様の車のメンテナンスの状況が見えるようにした。ここで言う四位一体とは、販売、サービス、純正部品の供給、お客様情報のフィードバックが一体になったもので、このシステムをつくり上げて充実を図ってきた。
 生産台数は、初年度はわずか1万台であったが、2年目には3万台超、3年目には5万台超の実績を上げることができた。こうなると「生産枠5万台」とは言いながらも、中央政府からは「あとは自由にどうぞ。ただし事前に計画を出すように」と言われた。この時期、中央政府は「三大三小」などの産業政策の見直しを進め、各社が切磋琢磨して発展していく方向に切り替えるべく準備をしていたようであった。広州本田はタイミングよく4輪生産工場を立ち上げ、また政府の方向転換のチャンスを生かして、生産ラインの拡充なども行うことができた。
 2009年末までの累計の生産台数は、192万2,000台。日産1,000台、年産24万台のラインも稼働している。この生産ラインは、日本の標準ラインと同等の能力を持ち、自動化率も日本とほぼ同じ。最新の技術で生産している。広州本田の発展は、中央政府の指導者の関心を呼び、2000年の江沢民国家主席の視察に引き続き、李鵬首相、朱鎔基首相も来訪。また2003年には、就任直後の胡錦濤国家主席が視察、その後には温家宝首相も来訪された。
 私どもは中国で、何か特殊なことを行った訳ではない。生産も営業も、お客様の満足と言う視点で捉えて、基本的なことを誠心誠意、愚直に展開してきた。
 今や中国は、自動車においては世界最大のマーケット。他の産業も含めて、さらに大きく発展することは間違いない。中国のお客様にとって何が最も望ましいのか、お客様の期待に応える為に何をしたら良いのかを常に考え、その持てる技術を積極的に提供して最大の努力を惜しまないことが重要。例えば中国の環境悪化は、即日本にも影響を及ぼす。今日、北京で黄砂が降れば、明日・明後日には日本で降る。決して他人事ではない。それゆえ新しい環境技術を初めとする最新技術を積極的に中国に提供し、ウイン・ウインの関係を築くことが重要。
 海外で仕事をするということは、言葉を換えると、他所様の庭に入って仕事をすること。従ってその庭のルールを守り、その庭にいる人たちの力を最大限発揮できるように協調しながら、謙虚に、愚直に仕事を進めていくことが重要である。


とやま産学官金交流会2010の分科会、ポスターセッションの様子


作成日2011.01.19
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