第21回 株式会社ロンウッド |
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下請けから独自のバットメーカーへ
ヒット商品を目指して、あの手この手 |
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同社が、昨年秋から売り出した「ヒッコリーパワー」。硬い素材のヒッコリーを芯材にして、木材の端材、竹材が囲む。ヒッコリーの使用量を半分にした「スーパー竹バット」は今秋から、ヒッコリー、メープル、竹を使ったバットは来春からの販売を目指している。新製品の3連打で大量得点を狙っている、というところか。 |
スポーツの興隆は、マンガ雑誌やテレビアニメに負うところが大きい。またそれは、スポーツ用具やウエア等の売れ行きにも影響を及ぼす。例えば野球。50~60歳前後の方の中には、「巨人の星」の影響で野球を始めた方も多いだろう(雑誌連載開始は昭和41年、テレビアニメ放送開始は昭和43年)。 当時、団塊の世代(昭和22~26年生まれ)は中学生あるいは高校生だ。それに続く世代も、今日とは比較にならないほど世代人口は多かった。 今回の取材先・ロンウッドの池田真一さん(同社代表取締役)は、「木製バットの生産量は『巨人の星』のころがピークで、全国の年間生産量は、確か350万本を少し上回るほどではなかったか…」と振り返る。それが今や35万本ほど。相対的に野球人口が減ったことと合わせて、昭和49年から高校野球で金属バットが使用されるようになったことが、木製バットの生産に打撃を与えたのだ。
福光にとっては痛手であった。何しろ木製バットの生産では、全国の6割前後を担っていたのだ。バット製造企業のほとんどは、スポーツ用品メーカーの下請けとしてバットをつくっていたので、マーケットの縮小は企業存続にかかわる大問題。規模の縮小に加えて、涙を飲んで廃業した事業主もいたと聞く。
ロンウッドも、下請けとしてバットを生産していた。しかしながら、昭和50年に入って独自の販路を開拓し始め、55年頃には下請け的な仕事はなくなった。
ただ当たり前のことだが、企業が独立を保つにはそのための方途が必要になってくる。同社では販路開拓とともに、ゲートボールのスティックやグラウンドゴルフ、パークゴルフのクラブなど、木製バット以外の商品もつくって売り、存続を図ったのであった。 |
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かつては全国の1割のシェアを… |
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「昭和9(1934)年の創業当初は、輸出用の木製漆器をつくっていました。スポーツ用品を手がけるようになったのは戦後のことで…」と池田真一さん(同社代表取締役)は会社の歴史を紹介してくれましたが、バット以前にもドラマがあったようだ。 |
「『巨人の星』が放送されていた頃は、当社にとってもバット生産のピークでした」
池田さんは懐かしそうに当時を語るが、ピーク時の同社の木製バットの生産量は年間35万本ほど。当時の全国の生産量の約1割、今日の日本全体分をロンウッド1社でつくっていたわけだ。
それが、先述のように金属バットが高校野球に採用されることによって、激減。ゲートボールのスティックなど、木製バットの製造設備を生かしての商品開発を進め、企業としての存続を図ったわけで、バット業界では池田さんは“福光のアイデアマン”で通るようになった。
「ただね、ひとりで考えるにも限度があるのです。餅は餅屋で、一歩突っ込んだことになると専門家に聞かないとわからない」
そういって池田さんは、4~5年ほど前から、南砺市の富山県工業技術センター生活工学研究所(生工研)の研究者に、しばしば助言を求めるようになった。例えば、木製バットでも飛距離の出るバットはできないか。特定のプロ野球選手の、オリジナル規格のバットを再現できないか。フランスの高齢者の間で人気のスポーツ・ペタンクの日本への導入と用具の開発・製造はできないか…などなど。バットのスイング速度の計測器は、同氏の発案で開発されたことを聞くと、ただのバット屋さんではないことが理解いただけるだろう。生工研の紹介で、当機構の支援マネージャーが池田さんに会って“オリジナル規格のバット再現機”の構想を聞いた時、「なるほど噂どおりの人だ」と実感した次第だ。

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さわやか遼君効果で、ホームラン商品 |
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「野球の本場アメリカで売りたい」 |
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