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第27回 「蛭谷和紙工房」  
第27回 蛭谷和紙工房
サッカー社会人リーグの選手から転身
超薄和紙を漉ける職人になったものの…

原料の生産・加工から手漉き、竹の簾(す)からはがすなど、「どの作業にも集中力が必要で、これがないと3gの紙は漉けない」と川原さん。手漉きで3gの和紙が漉けるのは彼のみ。
 1m四方の和紙を、高くかざして手を離すと、ふんわりと丸みを帯びて空中を漂う。向こうが透けて見えるこの和紙の重さは約3g。熟練の職人でも6~7gの紙を漉くのが精一杯な中、その半分の紙を漉くのは川原隆邦さん(29歳)。朝日町に伝わる蛭谷(びるだん)和紙の製法を受け継ぐ、唯一の紙漉き職人だ。
 2003(平成15)年、川原さんは蛭谷和紙の後継者が途絶えそうになっているのを知り、「蛭谷最後の紙漉き職人」といわれた米丘寅吉さん(09年他界)に会い、何度断られても頼み続けて弟子入りを果たした。原料になるトロロアオイを自ら栽培し、野生の楮(こうぞ)を採取するために山を歩き回る。薬品や機械による原料処理は一切せず、400年前と同じ製法を受け継いだ。サッカーの社会人リーグでプレーしていた前職からの転身に、驚かない人はいなかった。

販路を開拓しないと生活できない…

トロロアオイを栽培し、楮(こうぞ)の採取に山を歩く。加工も手作業で黙々と。20代の青年が朝日町の山中で、1人でこれを続けてきた。
  弟子入りした時、師匠は83歳。腕が上がらなくなり、その2年ほど前から紙を漉かなくなっていた。そのため指導は口頭による説明のみで、川原さんは師匠がいう理想的な紙の漉き方を求めて、試行錯誤を繰り返す。空中に浮かぶような薄い紙が漉けるようになるには4年の月日を要したが、勘がよかったのか、一般的な和紙は数カ月で漉けるようになった。
 さて紙が漉けるようになったら、仕事として続けていくためには売らなければいけない。しかしそこには職人としての修業以上の苦難の道が…。本題に入る前に、蛭谷和紙の歴史をざっと振り返ろう。
 蛭谷和紙は400年の歴史を有すると伝えられ、八尾和紙、五箇山和紙とともに越中和紙と総称されている。八尾和紙は薬の包装用に、五箇山和紙は加賀百万石の人々の生活用(傘紙、提灯紙、障子紙)として展開し、今日では民芸品やインテリア・クラフト、一部は文化財修復用に用いられている。ところが、ほとんどが障子紙として使われてきた蛭谷和紙は、家庭から障子・襖が少なくなり、また洋紙の障子紙が普及してくると衰退の一途を辿ることに。昭和二十年代までは蛭谷地区で120~130軒が紙を漉いていたが、蛭谷和紙での障子の張替え需要がなくなると急速に減ってしまった。
 川原さんが、寅吉師匠からの伝聞を交えて語る。
 「弟子入りしての7年間で、仕事として紙を漉いていたのは僕1人でした。師匠も、『蛭谷最後の紙漉き職人』と20年ほどいわれ、その前にも、別な職人さんが20年ほど同様にいわれていたようです」
 ここ50年ほどは、1人の職人が蛭谷和紙の製法を守ってきたわけだが、需要がめっきり少なくなってからは販路も細くなり、川原さんが弟子入りした当時はほぼゼロの状態。寅吉師匠は年金生活者で、紙を売って、稼ぐ必要性もなかったため営業はしなかったようだ。
 ただ、川原さんは年金生活者ではない。販路を開拓しないと生計が立てられない現実が、ひしひしと迫ってきた。


注目度は抜群。しかし一旦休業へ

「機械や薬品で処理する今の時代に、全部手作業を守っていた蛭谷和紙に感動して弟子入りしたいと思った」と7年前を振り返る川原さん。
 「初めは貯金を崩して食べていました。紙が漉けるようになったら300~400枚を束ねて、東京などの紙の問屋さんや専門店に飛び込み営業をしました」
 売れなければ収入のない川原さんは必死だ。マスコミを訪ね、和紙の現物を見せてPRもした。またクラフト展や伝統工芸展、ギフトショーなどの展示会にも出展して自らが漉いた紙の宣伝に努めた。
 注目度は抜群であった。すべて手作業の蛭谷和紙は、各種の新聞・雑誌・テレビで紹介され、展示会では最も関心を集めた。ところがこれだけ注目を集めても実際には売れない。年間の販売額は60~70万円で足踏みしたままであった。
 「このままでは紙を漉いていくことができない」
 思いあまった川原さんは県の経営支援課に連絡し、伝統工芸を支援する制度はないかと打診(平成20年12月)。経営支援課より当中小企業支援センターが紹介されて、さっそくマネージャーが動き始めた次第である。
 マネージャーは超薄和紙が文化財修復で使われていることを知り、関連する機関に打診すると期待の持てる返事が返ってきた。そして21年度に入ってからは、当機構の事業評価支援検討委員会に諮り、超薄和紙生産技術の研究・開発を支援することを決定。11月には中小企業自立化支援事業を活用して、研究開発費を助成することも決めた。また販路開拓のためにマネージャーが個別マッチングを展開したところ、大手セレクトショップが協力してくれることになり、店舗での販売とともにホームページに掲載して、ネットショッピングを開始。蛭谷和紙紹介コーナーのヒット数は毎月1位ないし2位をキープするほどになった。
 ただ川原さんはここで一旦、生活を安定させるために紙漉きを断念せざるを得ない状況になった。貯えは底をつき、友人や支援者に支えられて紙を漉いてきたものの、それも限界。09年末に受賞した「日本民藝協会賞」(日本民藝館展での最高賞に次ぐ賞)も返上し、今までの支援者に「7月の富山市内での展示会を最後に休業する」旨の挨拶まわりを始めた。
「休業」が伝えられると、テレビ・雑誌からの取材依頼が相次いだ。「また戻りたい」と紙漉きへの熱い思いは消えていない。
  「生活を安定させて、また紙を漉きたい。しばらくは伝統工芸保存を別な面から応援していく」と川原さんは語るが、当中小企業支援センターとしては今後も本人と連絡をとり、ともに復活の機会をうかがっていく所存。このコーナーをご覧になられた方で、蛭谷和紙の販路・用途開拓などでアイデアのある方がございましたら、センターまでご一報を!


 代表者/川原 隆邦
 事 業/古くから伝わる製法と道具での和紙製作
 URL/http://www.birudan.net/top/

作成日2013.08.05
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