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[第22回]株式会社太陽スポーツ  

[第22回]株式会社太陽スポーツ
 スポーツ用品小売店は夢を語る場
 地域密着でトップ選手からキッズまで

 冒頭から不景気な話で申し訳ないが、スポーツ用品小売店の最近の大型破綻例をひとつ。平成8年にはO社(負債総額355億円)、13年にはV店(同750億円、運営はB社)、そして14年にはM社(同289億円)が行き詰まり、破産、清算、民事再生法適用などの道をたどった。
 この業界の慣行として、商品の仕入れは卸売業者が年2~4回開催する共同展示会で発注(スキー等の冬ものの発注は3月前後、通年もの(春もの)は10月前後に発注)し、シーズン前に支払いがくる。また70%近くは買い取りの契約。天候の事情とは無関係に、時にはシーズン当初から3~4割引のバーゲンを始める店もあるが、資金需要に答えなければならない店側の事情が強いようだ。従ってこの冬のように天候に左右されたり、品ぞろえがうまく行かなくて販売不振が重なると、大型店といえども体力が続かなくなり、冒頭のような例を迎えてしまうのである。

テナントで入るより、自社の店で

 太陽スポーツが魚津市に創業されたのは、昭和45(1970)年4月のこと。東京オリンピックから6年目、またテレビでは、「巨人の星」(43年~放映)や「アタックNo1」(44年~放映)をはじめとするスポーツアニメが人気を博して、スポーツへの関心が高まっていた時期である。また一般的な家庭でも、スポーツが楽しめるほど生活に余裕が出始めた(日雇い労働者の星一徹にも野球用具が買えた)時でもあった。
鶴見瑞夫社長

 現社長の鶴見瑞夫氏が振り返っていう。
 「私が当社に入ったのは、3店舗目を電鉄魚津駅前に出す時(49年4月)でした。本店も、創業の翌年にオープンした黒部店も順調で、魚津駅前店はゴルフ用品を主体にする予定で、その店の責任者として入ったのです」
 48年夏には魚津カントリーがオープンし、県内のゴルフ人気が高まり始めた。また52年1月には、らいちょうバレースキー場が営業を開始し、スキーを楽しむ若者も増加。同社ではこれを機に魚津駅前にもう1店出店し、ウィンタースポーツ用品を主に扱う店を始めたのであった。
 商業統計表(経済産業省)を見ると、この時期、スポーツ用品小売店は増える傾向にある(49年13,411店、51年15,802店、54年18,615店、57年21,585店)。今日、全国に展開している大型店もこの頃にスタート、大手A社は47年、Z社は54年に創業し、のちに多店舗化して売り場を拡大。太陽スポーツでも、富山市や県西部、そして石川県の金沢市、野々市町などにも出店していったのであった。
 ただ、同社の多店舗展開は、鶴見社長の言葉を借りるならば、「周囲から強く勧められて出ることが多かった」ようで、苦戦を強いられたケースもあった様子。昭和54(1979)年、金沢市の一等地のファッションビルにテナントとして入った時には、「想定外に低い売上げ」の結果、1年で撤退した経験も持っている。
 「はじめてのテナント出店でした。若者向けのファッションを扱う店が多かったので人は集まったものの、スポーツにあまり関心のない方が多かったようです。またテナントだと、展示や店の運営に制約があり、当店だけ独自に動くこともできませんでした」(鶴見社長)
 「高い授業料を払った」と鶴見社長は振り返るが、同社ではこの後、新たな出店の際には商圏の特性などを詳しく検討することにしている、という。



外商販促という考え方で

上田良雄専務
 スポーツ用品の販売では、学校等にも大きな市場がある。体操服に始まり、体育器具・設備、クラブ活動のウエア・用具、体育館の床の工事等々。体操服は毎年の需要が見込まれるため、学校を押さえることは売上げの安定のためにも必要といえるだろう。同社では昭和63(1988)年に外商部を設けて、学校等への営業を積極的に展開。しかしながら、7年後には外商部門を独立した別法人にしてしまった。
 かつてはハンドボールの選手として大きな大会にも出場した上田良雄専務が語る。
 「当社としては、店頭売りがすべてになりました。しかし業界大手の苦戦を見て、6年前から外での販促活動を復活させました。学校等への営業権は独立した別法人に譲渡しましたので、当社としてはゼロからの再出発。新たなルートの開拓から始めました」
 同社がターゲットとしたのは、野球やサッカーをはじめとする県内のクラブチームやスポーツ少年団のチームなど。トップアスリートからスポーツ初心者の小学生の活動をチーム単位で応援しながら、販路の拡大を図ろうというのだ。

 上田専務が続けていう。
 「全国展開しているスポーツ用品小売店が県内にもあり、高いシェアを持っています。しかしナショナルチェーン店は地域に密着した活動は、なかなかできません。太陽スポーツでは、当社主催の大会やツアーを企画して、地元の多くのチームの方々に参加していただいています。この企画で、直接スポーツ用品の販売ができるわけではありませんが、これはアスリートの皆さんとの大切な接点で、社内では外商販促と位置づけ積極的に取り組んでいます」
 こうした積み重ねにより、来店者が増えて販売増につながっているという。

同社主催のスポーツ大会の様子を伝えるボード。チームや参加者の他にいきいきとしたプレーも紹介している。


ネット販売でも“光明が見えてきた”

太陽スポーツ富山店は、サッカー・野球用品が豊富で、キッズ・ジュニア・一般競技者向けまでそろう。
 同社の販促のもうひとつの新しい取り組みは、ホームページ(HP)経由の販売を増やしつつあること。自社HPの他にあるショッピングモールにも出店してネット注文に対応している。では、HP上でどのような商品を紹介しているのか。同社はメーカーとの契約によって、県内の他店には入荷しない商品も入るのだが、そういうレア物をネット商店で販売しているのか。
 「ネット上では、店頭の売れ筋商品を中心に販売しています。売れ筋とは違った商品を、スペースの制約がないからたくさん紹介しようという傾向に走りがちですが、店頭であまり動かない商品はネット上でも反応が悪い。最近では、ネット販売用の在庫を少しは持てるようになった」(上田専務)という。

店内には修理工房もあり、スパイク等のメンテナンスにも対応。
 冒頭に紹介したように、スポーツ用品小売店では年2~4回の仕入れが一般的。予想以上に商品の人気が高まると、市場(店頭販売、ネット販売も含めて)では品薄感が出てきて、ネット上で商品を捜しまわる消費者が結構多いらしい。そういうお客さんがネット経由で発注してくる他、商品が豊富な大都市圏の方や同社から数百メートル離れたところに住んでいる人も申込んでくる、とのこと。発注者の思いは、“店までいく時間がない”あるいは“店へいく時間を他のことに充てたい”ということだろうか。同社ではネット経由の販売も順調で、「光明が見えてきた」というから、新たな販売チャネルに育ちつつあるようだ。


スポーツ用品小売店はスポーツの夢を語る場

ランプジャック掛尾店。スノーボードやスキーのチューンナップマシンを導入していて、メンテナンスを依頼してくるプレーヤーが多いという。
 スポーツ用品小売店は、“店の元気も商品”のひとつであろうが、業界全体では店舗数は昭和57(1982)年をピーク(21,585店)に年々減少。平成14(2002)年には17,293店になり、この20年間で20%近くが姿を消した。また年間販売額では平成6年の1兆8833億円をピークに、14年には1兆5488億円と8年の間で約18%の減。1平方メートル当たりの年間販売額で比較してみると、83万4000円から55万3000円に下がっている。(いずれの数値も商業統計表より)
 平たくいうと、ここ十数年間は、スポーツ用品小売業界には元気がない。ところが今回取材にうかがった太陽スポーツは、多少の変動はあるにしても、ある一定の売上げを毎年確保し、地方の小売店にもかかわらず全国5331社中70位(帝国データバンク調べ)と健闘。栄養ドリンクを毎日飲んで「ファイトー、……」と毎日気合いを入れているのではないかと思えてくる。
 「いや、そんなに気張って商売しているわけではありません」と鶴見社長は笑いながら答えて、続けた。
 「用具のメンテナンス等の要望に答え、県内のトップアスリートからも愛用品の修理の依頼をいただいています。トップアスリートの用具のメンテナンスをすると、それに続く方々にも当社の技術を信頼していただき、裾野が広がってきました。スポーツ少年団や地元のチームの活動を応援することも地味なことですが、こうした試みもジワジワ~と効いています。要は地域密着ということでしょうか。スポーツ用品小売店は、単なる販売の場ではなく、スポーツを通じての夢を語る場でもあるのです」
 鶴見社長は、若い頃はグラウンドで白球を追い、後には二周り小さいボールをグリーンに放つようになった。ハンディは2。ボールは小さく変わったが、スポーツの夢は大きく進化しているようだ。


鶴見瑞夫 株式会社太陽スポーツ 代表者
本  社/魚津市上村木2-3-30
本  部/富山市一番町3-17
事業内容/スポーツ用品・体育器具販売、スポーツ設備工事
創  業/昭和45(1970)年
資本金/3,910万円
従業員/46名

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