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[第17回]株式会社 弁慶  

[第18回]株式会社 弁慶
創業当初からメーカーと取り引き
店頭売りと企業回りで安定して成長

「あと3日で完成して引き渡されるという時に、店が火事になりました」
  石橋社長は、父親の支援を受けて創業し、作業服・作業用品の専門店のオープンを控えた昭和63年を振り返る。当時、同氏は26歳。3月31日に店の引き渡しを受け、4月上旬に店をオープンするための準備を整えていた。また5月には結婚を控え、数年分の盆と正月が一緒にきたようなあわただしさの中にいた。
  出火したのは3月28日。引き渡し前の火災で、責任は建設業者側にあったため店舗はすぐに建て直されることとなったが、開店は半年後に延期された。
「でも僕は本当に恵まれている。有頂天になっていた僕に、神様が警告を与えてくれたのかもしれません」
石橋社長はドラマのような店の歴史の始まりを語り始めた。

恵まれた環境で出発したが…

物語の弁慶は、鐵熊手(てつくまで)、大鋸(おおのこぎり)、鉞(まさかり)、さすまた等の7つ道具を背負っているが、同社のシンボルキャラクターの弁慶は、つるはし、ヘルメット等もたずさえ、安全靴を履いて現代的。“義経に忠誠を尽くしたように、地域のお客様に貢献したい”という思いから「弁慶」と名付けられた。
 東京の大学を卒業した同氏は、地元での就職を希望し、縁あって高岡市にある雨具メーカーの営業としての職を得た。営業の担当地区は九州。毎月のように出張し、得意先を訪ねて販促活動に勤しんでいた。
  しかしながら、父親が営む不動産業を兄とともに引き継ぐことになり2年半で退社。その年の秋、前職で世話になった九州の大手の作業服・作業用品専門店の社長(以下、M社長)が訪ねて来て、「わしと同じような専門店をやってみたらどうだ。ノウハウは教えるから…」と勧めたのであった。もともと父親は、次男(石橋社長)には家業とは違う商売に就かせたいという希望があったため、渡りに船とばかりにこの話に飛びつき、さっそく九州の店を見学。店内はお客さんであふれていた。
  富山県内にはない業態の店であるものの、将来性があると判断した父親は即決。高岡に帰るとR8号線のそばに持っていた土地(現在の野村店の土地)の測量を始め、約100坪の店を建設するための準備に入った。
  火災が発生したのは、その翌年の3月である。半年遅れで店はオープンしたのであるが、周りに押されての、20代半ばでの独立は人もうらやむほどのものといっていいだろう。
  「10坪、20坪から始めて徐々に店を大きくして、一代をかけて100坪の店に成長させていくのが普通でしょう。そう思うと、僕は本当に恵まれていた。でも、最初からそういう環境を用意されると失敗は許されず、僕にとっては非常にプレッシャーでした」と同氏は当時の記憶をたどる。



「在庫は売ったらいい…」

 さらに大きなプレッシャーとなったのは、M社長の店舗運営のノウハウである。同氏の店では、業界のトップメーカーから商品を直接仕入れ、それをリーズナブルな価格で販売。今でこそメーカー直というのも珍しくはないが、M社長の店では当時既にそのスタイルを確立していた。
「ノウハウは教えるから…」の約束通り、M社長は石橋社長を伴ってメーカー回りをしてくれたのだが、取り引きに応じてくれたのは30社あまり。“取り引きは問屋・代理店を通して”という商習慣が厚くて高い壁となった。
  従って、創業当時の商品構成は片寄ったものになり、「一部の商品は御大(M社長のこと)の店から仕入れたけど、店はスカスカだった」(石橋社長)という。M社長は、問屋・代理店経由で商品を仕入れて、商品構成を増やすことを許さなかったのである。
  また、メーカー直の取り引きができたといっても、扱うロットは大きい。始めたばかりの店が、見込みだけで1年分あるいはそれ以上の在庫を抱えるのはリスクが大きく、そのため石橋社長は「御大の店から小ロットで仕入れさせてほしい」と泣きつくように何度も頼んだ。
  しかし答はいつも同じで、単純そのもの。「在庫がいっぱいあるんなら、売ってきたらいい。メーカー最小ロットでも数が多すぎるのなら、交渉して少なくしてもらえばいい」。人もうらやむ形で若くして創業できた石橋社長であるが、通常とは違う“重荷”を背負ってのスタートであった。



社の重荷が強みに変わる

建設業・製造業向けの作業服、作業用品を主に取りそろえる店内。平日は朝7時から店を開け、働くみんなを応援している。(日・休日は午前10時開店)
商品構成が片寄った店といっても、信頼できる業界大手メーカーの商品が安く買えることから、消費者の反応は上々。また、いわゆる外商部門を設け、企業への作業服や作業用品の販売に乗り出した。
  企業に、作業服・作業用品を納めることを生業とする職種に“納入屋さん”と呼ばれるものがある。彼らは作業服・ユニフォームをメインにし、作業用品は“ついで”のように扱っていた。
  弁慶の外商担当者らは、まずは手袋等の小物の受注から試みた。企業の仕入れ担当者は、消耗品はしっかりした商品で安ければ、納入業者を問わない傾向にあった。既存の納入屋さんも、手袋をとられたからといって“ついで”の商材であるため巻き返しを図ってこない。手袋を足掛かりに、ヘルメット、メガネと徐々に増やし、ついには作業服・ユニフォームの受注まで広げたのであった。
  「手袋ひとつとっても、用途によって数百種類あります。納入屋さんはこれら全てのサンプルを持つことはできませんし、ましてや在庫も抱えられない。当社の場合は、抱えていた在庫を生きたものにすることができ、それを強みにすることができました」(石橋社長)
  重荷だった多種大量の在庫が、ある意味、同社の武器に変わったのである。
  顧客企業はどんどん開拓され、今では900社を超え、1,000社に迫る勢いを見せている。また店舗の数も4店に増やした。当然、売上げはこの勢いと並行して伸びてきたのであるが、こうなると「問屋から仕入れて…」とかつて直の取り引きを断ったメーカーが、「取引口座を設けたい」と打診してくるまでになった。前述のように、当初の直取り引きのメーカーは30社あまりであったが、創業後の開拓とメーカーからの申し出によって最近では100社を超え、名実ともに作業服・作業用品の専門店に育ってきた。

売上げの比率を半々に

「販売チャネルをひとつに絞ると、社会情勢に影響されやすい。店頭での販売とともに企業回りをし、売上げの比率を半々にしたらいい、と御大に創業時にアドバイスされました」と石橋社長は17年前を振り返り、「景気変動の激しいここ十数年を見ると、この言葉の重さが実感できます」と言葉をつないだ。
  ちなみに、現在の比率は6対4で店頭売りが多い。これは一昨年に開店した4番目の店、掛尾店(富山市)が好調なため店頭売りの比率を大きく押し上げたためで、企業への納入先が増えるとともに比率の差は縮まっているという。
  紙幅が尽きそうだ。九州のM社長との出会い、メーカーと直取り引きを始めた時の問屋・代理店の圧力、人材募集時の試行錯誤、そして夫人(静香さん)との出会い…。これらの余話は本稿の目的ではないため省略するが、社名の「弁慶」と合わせて考えると、並のドラマ以上の“人間模様”がうかがえる。特に、夫人との出会いは…。


石橋 弘行 株式会社弁慶 代表者
本  社/高岡市六家1217-1
事業内容/作業服・事務服、作業手袋・安全靴・ヘルメット等の作業用品の販売
設  立/昭和63年2月
資本金/2,000万円
従業員/25名(パート含)



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