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[第16回]株式会社ワシントン靴店  

[第16回]株式会社ワシントン靴店
消費者の好みを品ぞろえに反映し
地域密着型で展開していく

 冒頭から不景気な話で申し訳ないが、靴の小売業界については、ここ数年あまり元気な話題がない。平成10年代に入って、全国的にチェーン展開していた2社が破綻。「商業統計」(経済産業省)を見ても店舗は減り続け、昭和60年2万7,600店に対して、直近のデータの平成14年では1万4,800店とほぼ半減し、年間販売額も平成3年の1兆445億円をピークに、平成14年は7,187億円と3割強のダウンとなっている。  業界自体にはアゲインストの風が吹き続けている、といってよい。主な原因は、安価な海外産の靴が市場を席巻しつつあるためで、同じ数を売っていても売上げが落ち込むという状況になっている。従って店舗数は減り続ける一方で、この傾向はまだ続くのではないかと見られている。  そんな市場環境の中で、今回訪問したワシントン靴店は元気だ。同社では平成17年を「第2の創業期」と位置づけ、“新たに打って出よう”としている。“打って出る”のは、パワーがあるからではないか。そう思いながら北川社長を訪ねて総曲輪店に足を運んだ。もちろん靴はピカピカに磨いて…。

総曲輪店で天王山の戦い

  「おっしゃるとおり、靴の小売店はどこも大変です。アジア諸国でつくられた靴の品質も結構上がってきましたから、お客様はそちらの方にシフトされている。私どもの店では、販売している数そのものは若干増えていますが、単価が落ちていますから思うように伸びていません。このまま守りに入ると、小売店は負けてしまう。総曲輪にこの店を構えた時も、当社は出ることによって力を得てきました」と北川社長は昭和40年代に思いを馳せる。
  そもそも同社は、昭和13年に東京・神田神保町で創業。靴屋に勤めて修業をしていた現社長の父親が独立し、空襲が激しくなる前に郷里の黒部市に移転して、昭和20年、再び靴屋を始めたのであった。
  商店街にあった黒部の店は、結構、繁盛したようだ。数年後、魚津の商店街にも店を出して夫人に任せ、富山に出店したのは昭和41年のこと。黒部本店の支店的な位置づけで、当時20代半ばであった北川社長が靴の小売業の修業を始めたのであった。
  総曲輪通り沿いに店を構えたといっても現在地ではなく、店の広さも23坪というこじんまりとしたもの。この店でも、結構売れたそうだ。
  「でもやはり、23坪では限界がありました。お客さんに尋ねられても“扱っていません”“品切れです”と答えることが多くあったのです。最近の言葉でいえば、顧客満足度を十分に満たせない店でした。それで、親父と相談して今の総曲輪店の土地を買い、ビルを建てて再出発したのです」(北川社長)
  時あたかも、第1次オイルショックが世を騒がせた昭和49(1974)年。5年後には第2次オイルショックも起きて、消費は冷え込んだ。総曲輪店は誕生と同時に荒海に放り出されたようなもので、今から振り返ると、この総曲輪店を軌道に乗せることが同社にとっては天王山の戦いであったようだ。



社会の変化で靴も多様化

ブランドもののスニーカーの品ぞろえは圧巻。特に1階のナイキショップは限定品も扱っているため、注目度が高い。(総曲輪本店)
 小売業にとっては、売って商品の回転を高め、在庫の負担を軽くすることが肝要である。本誌の読者の皆さまには“釈迦に説法”のようでお許しいただきたいが、靴の小売りは、品ぞろえの仕方がちょっと難しい。
  というのも、靴はサイズ(足長:5mm単位)とワイズ(足囲:6mm単位、8段階あり)の組み合わせにより、同一のデザインのものでも大きさの違いで品数が多くなり、例えば紳士靴25~27cm、E~3Eの3種類のワイズをそろえようとすると、同一のデザインのものでも15足そろえることになる。そしてたとえ数値の上でサイズ、ワイズが合ってもメーカーによって、捨て寸(指先の遊びの部分)、ころし(足に靴をフィットさせるために締める部分)の程度が異なるため、履き心地が悪いことがしばしばある。
  メーカーや小売店では、生産効率や販売効率から2E、3Eの靴をメインにしているが、ある統計によると紳士靴でこれに合う割合は45%、婦人靴では33%で、半数以上の人が合っていない靴を選んでいるという。こうした点や靴に対するファッション感覚の変化から、近年はゆったり感があり、また安価なケミカルシューズ(塩ビやナイロン等の化学製品を素材にした靴)やスニーカーが好まれるようになり、販売数の割には販売額が伸びない結果を招いているのである。事実、ワシントン靴店においても「スニーカー等の売上が40%を占める」(北川社長)ようになっているという。



平成17年は第2の創業

国内外から厳選されたブランドもののシューズが勢ぞろい。素材や色、デザイン等すべてにこだわって女性の足下をサポートするワシントン・シューズ・プラス(総曲輪本店地下1階)
 同社はスクラップ&ビルドを繰り返しながら店舗数を増やしてきた。多い時で35店舗、この取材の時点では商店街の店舗を郊外型店に集約するなどして23店舗。富山を中心に新潟、石川、岐阜、長野、群馬と6県で営業し、北陸の靴屋では最大規模である。
  店舗展開の過程で、同社は単なる安売り店は目指さなかった。そのあたりの事情を北川社長にうかがうと次のような答が返ってきた。
  「大量生産された規格品は安いのですが、履き心地の観点からいうと問題のある場合が多いし、ファッション性も乏しい。長年富山で靴屋を営んできた経験からいいますと、富山の消費者は、もちろん値段は気にされますが、履き心地やファッション性を大事にされる。デザインは斬新なもの、個性的なものは好まれませんが、かといってオーソドックス志向でもない。その中間で、落ち着いた中にワンポイントあるようなものを好まれる。スニーカーなどでも、大体同じです」
  どうやら靴の小売店は、地域密着型が相当要求されるようだ。業界全体を見渡してみても、大規模に全国展開している小売業者は1社あるのみ。数県にまたがるようなブロック的な展開をしている企業がいくつもあり、多くは単独もしくは数店で、商店街やロードサイド、もしくはショッピングセンターのテナントとして店を構えているケースが多い。
  そういう中で、同社は平成17年を「第2の創業期」と位置づけ、新たな展開を模索しようとしている。

50店あれば、50種類の店を

 「商店街の店を統合してロードサイドに持っていくなどして、店舗の整理をしました。靴は、お客様によって紳士・婦人・子ども向け、用途によってフォーマル・スポーツ・カジュアル・インドア、材質によって革・合皮・ケミカル・布と、ひと口に靴といってもいろいろあり、ファッション性やサイズ・ワイズを加味すると、300坪ほどの店が必要なのです。30年前に23坪の店では狭いと感じたように、今は200坪の店でも狭い。第2の創業というのは、広い店で、新しい店舗展開をスタートしようということです」
と北川社長は意気軒高だ。
  同社長は、数年先には社長の交代を考えている。後を継ぐのは専務(社長の長男)の予定で、5年後、10年後のワシントン靴店の青写真を持っている。
  「可能性があれば、新しい地での展開もあり得ると思います。これからはワシントン靴店の中でもお店の差別化をし、例えば50のお店ができたら、50種類の店ができる。そういうふうに地域の特性を反映した店にしていきたい」
 取材を締めくくる北川社長の言葉から、40年前、総曲輪通りに店を出し、後に店を拡張した時も、ピカピカと輝く志を立てたのではないだろうか、と思えてきた。


北川 陽一 株式会社ワシントン靴店 代表者
本  社/ 富山市総曲輪通り3-5-5
事業内容/ 靴小売業
設  立/昭和29年6月(創業:昭和10年)
資本金/1,000万円
従業員/105名(パート含)

     


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