第39回 株式会社四十物昆布 昆布店 海外進出 TONIO Web情報マガジン 富山

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第39回 株式会社四十物昆布

漁師の期待と昆布をかついでフランスへ
商売にも“だし”が効いて…

「将来性がない」といわれた昆布店経営を、
昆布の輸出にまで発展させつつある四十物直之社長。

 「昆布屋なんて将来性がない。おまえは店をつがなくてもいい」
 父親から、子どもの頃から常々そういわれていた四十物直之氏。機械をさわることが好きだったため大学は工学部に進み、エンジニアになることを夢見ていた。
 就活では某自動車メーカーから早々と内定を得て、卒業を迎えるばかりだった。それを叔父に話すと「長男が東京で就職して、将来、親の面倒は誰がみるんだ」と半ば叱るような口調で諭してきた。
 すでにほとんどの企業で内定が出され、今さら富山で就職活動をするといっても、遅すぎた。ひとり逡巡していると「家業の昆布屋があるだろう、昆布屋が…」と叔父が畳みかけてきた。
 「そうか。やっぱり継がないといけないのか…」と半ば諦めかけたが、「このまますぐに親父と一緒に仕事をしてもダメだ。どこかで修業をして、それから富山に帰ろう」と気を持ち直し、ツテを頼って関西の昆布商で、“昆布のイロハ”を教わることにした。
 最初に配属されたのは現場だ。朝4時には市場に行って昆布の販売をし、日中はとろろをつくった。半年後に営業に回され、京都、和歌山、大阪のスーパーを担当して、昆布の営業に走り回った。
 「ワゴン車に、とろろをつくる機械と昆布を積んで昆布の小売店に行き、店先で実演しながら売りました。店主やおかみさんは、『大将、とろろどないや』と通行人に気軽に声をかけていましたが、私にはそれができません。でもそれが毎日、店を代えて続いたのです。そのうちに、一声、二声と出せるようになり、1年もすると店先を通る方に自然と声がかけられるようになったのです」(四十物社長)
 「四十物さん、もう富山へ帰ってもええで」と修業先の社長がいったのは、店の門を叩いてから1年半が過ぎた時だった。
 今回のお店訪問は、黒部市の四十物昆布。四十物直之社長の昆布屋繁盛記だ。

地元の1番店に営業をかけて…

生地の本店。黒部市内観光の協力店になっているため
東京・大阪等の観光客も多数訪れるが、
同店のそばの電柱には「とき」もよく遊びにくる。

 四十物青年が修業を終えて黒部に帰ったのは昭和53(1978)年、24歳の時だ。当時は、生地(いくじ)のお店での加工・販売と関西の問屋に卸すのみで、家内制手工業で細々と営んでいる程度であった。
 当時を振り返って四十物社長がいう。
 「父親は職人肌の人間でした。いい商品を売れば客は自然についてくるという発想で、営業活動をまったくしていなかったのです。僕は1年半の修業で、“いい商品でも営業しないと売れない”ことが体に染み込んでいて、事ある毎に親父に進言しました」
 昭和54年には、父親(=社長)も根負けして折れた。直之氏が正式に社長に就任するのは平成8(1996)年のことだが、“折れた”時から店の切り盛り、営業の一切を息子に任せ、自分は職人に徹した。そして営業を任された直之氏は、さっそく食品問屋などへの挨拶回りに勤しんだ。
 昭和57(1982)年に入ると、大和富山店にテナントとして入っていた昆布店が、事情があって撤退するという情報を得た。大和富山店というと県内では一番店。「出店したい」と思ったところでそう簡単に事が運ぶものでもないが、青年会議所のある会合の席で「大和への出店にチャレンジする」と表明したのだった。
 仲間の多くは「黒部の個人商店がいきなり大和は無理だ」と本気にしなかったそうだ。しかし、皆の前で勢いよくいった手前、何も行動に移さずに手を下ろしたのでは“男がすたる”とばかりに、正面から大和へのアプローチを開始。担当部長のもとへ出かけて、「出店させて欲しい」と直談判したのだ。
 「皆の前で表明すると、やらざるを得なくなるでしょう。ある意味、自分で自分を追い込んだのです」
 時に四十物青年28歳。大和富山店への出店には、大手の海産物取扱商などが何社も手を挙げ、四十物昆布は横綱の胸を借りる幕下力士の様相だった。ところが関西での修業の効果が現れたのか、同店が昆布の王様といわれる羅臼(らうす)昆布を扱っていたことと、四十物氏の若さと可能性が期待されて、テナントとして入ることが決まったのだ。またこれを縁に、平成6(1994)年には大和高岡店にも出店するようになり、問屋経由での販売先の増加と合わせて、売り上げはのびる一方であった。

ネット販売で月平均100万円超

温度、湿度が管理されている倉庫を案内してくれる四十物社長。
指示棒でつかっているのは、昆布です。

 しかしそれも、長くは続かなかった。陰りが見え始めたのは、平成10年前後から。長引く不況で贈答品市場が冷え込み、お中元・お歳暮での昆布の消費量が減ってきた。同社の場合は、大和2店だけでも一時は1億円を超える年間売り上げを立てていたものが、大台を下回るようになったのだ。
 「市場の冷え込みに伴って、最近は昆布の相場も下がってきました。特に下落幅が大きいのは1等、2等などの等級の高い昆布で、浜値は今や、かつての半分程度。『四十物さん何とかしてくれ。これでは後継者を育てるどころか、自分たちも続けていけない』と羅臼の漁師さんは悲鳴を上げています」
 このように語る四十物社長が、漁師さんたちに期待されるには理由(わけ)がある。それは、羅臼昆布の全生産量のうち、8%ほど(約24トン)を同社が毎年仕入れるから。また町民の7割前後は、そのルーツをたどると黒部につながり、黒部に本店を構える四十物昆布に自然と親しみを覚えるから、というのもあるようだ。
 「今が辛抱の時や」
 社長は羅臼町を訪ねるたびに漁師さんを励ましてきた。そして昆布の加工品の開発に力を入れる一方で、昆布のPRも展開。東京や富山・高岡での昆布祭りの開催支援や食品メーカーのイベント(化学調味料と昆布だしの比較)への試供品提供などに勤しんできた。
 ホームページでの販売もその一環だ。
 「ネットで昆布の販売を始めたのは、平成17年からです。知人がIT企業にいたのでホームページの基本的な設計・デザインをお願いし、日々の更新は私がするようにしています」(四十物社長)
 ちなみに「こんぶ」「昆布」で検索すると、同社のホームページは1ページ目の数番目に表示されるほどで、社独自のSEO 対策は万全の様子。ネット経由の売り上げは、月平均で100万円を越える程度で安定しているという(SEO対策/ネットの検索画面で、自社サイトが上位に表示されるための対策。有料の対策もあるが、小手先の対策では、なかなか上位に表示されない)。

羅臼昆布を背負ってフランスへ

昆布まつりでは、北海道の高橋知事、
タレントの柴田理恵さん(ともに富山県出身)も応援にかけつけてくれ
るなど、支援の輪が広がって盛り上がりも見せている。

 また、平成22(2010)年度には、当機構の「販路開拓マッチングコーディネート事業」に採択されて、商社OB等のアドバイスを得て、大都市圏のホテルや旅館などに積極的にアプローチを展開。「だし用に羅臼昆布を…」と売り込み、サンプルを必ず手渡してきた。
 「昆布の王様、羅臼昆布ですから、だしのコクはまったく違います。お試しいただいた板前さん、シェフの皆さんからは絶賛していただきました」
 自慢の羅臼昆布をほめられるのだから、四十物社長もご満悦。当該補助事業中に4つのホテル・旅館などで、業務用に、定期的に納品するようになったそうで、その後も独自に営業活動を続けているという。
 ここで、四十物社長の言葉にひっかかった。
 「シェフが昆布を? ブイヨンの間違いでは…? イタリアンとかフレンチで、昆布だしを使うのか?」
 その疑問を社長に向けると、「ヨーロッパのシェフも昆布のだしに注目し始めているのです」と答えが返ってきた。
 話がいきなりヨーロッパに飛ぶと混乱するので、事の経緯を紹介しよう。
 そもそもの始まりは、富山経済同友会が行った「とやま昆布まつり」(富山市、高岡市などで開催)や、県が「日本海学」の一環で東京・有楽町で催した「富山・北海道昆布祭り」だ。それらの祭りに熱心に協力する四十物社長に、「販路開拓総合助成事業の補助を受けて、フランスで開かれるシラ国際外食産業見本市2011に参加してみないか」と県の職員が紹介し、石井知事が「昆布ロードを世界にのばすのは、四十物さん、あなただ」とある会合で背中を押してきたのだ。
 そこまでいわれて断ったのでは、男がすたる。四十物社長は二つ返事で引き受けた。実はその数カ月前、羅臼町に行って「こうなったら海外へ行って昆布を売る」と大見栄を切っていたのだが、そのチャンスが巡ってきたと四十物社長は天運到来を信じて、フランスへ飛んだのだ。

昆布ロード、ヨーロッパへ

販路開拓総合助成事業の補助を受けて出展した、
「国際外食産業見本市2011」の様子。
2200社あまりの出展企業の中で日本からの参加は3社だった。

 「見本市の5日間、毎日6リットルの羅臼昆布のだしをつくって会場に行き、ブースを訪ねてくれるシェフの皆さんに味見していただきました。皆さん『うまい』と感動され、『どこで買える』と迫ってきました。念のためにアンケートを取りましたが、協力していただいた100名ほどのシェフのうち、半数の方が昆布のことを知っていたのには驚きました」
 シェフの反応に、四十物社長は踊り出したいほどだった。ただ、このまま日本に帰ったのでは、せっかく昆布に興味を持ってくれたシェフの熱を冷ましてしまう。氏は必死だ。そこでパリで日本食を扱う商社にコンタクトをとって、「取扱店になってほしい」と頼み込み、了解を得たのであった。

 その後、東北大震災があり、過剰に反応したフランスのシェフからは実際のオーダーに結びつかなかったものの、他のヨーロッパの国々のシェフは先の商社を通じて、羅臼昆布を求めるように。世界一のレストランと評判のNOMA(デンマーク)のオーナーシェフ、レネ・レゼッピも羅臼昆布の大ファンになり、定期的に仕入れるようになったという。
 「日本食について勉強したことのあるシェフは、ブイヨンとは違ったうま味を出す昆布に、高い関心を寄せていたようです。ただ、今まではどこにも扱っていなかったので、使いたいと思っても使えなかったのですが、外食産業見本市を機にヨーロッパの国々でも販売されるようになりました」

 四十物社長の言葉から、ほっと一安心といった様子がうかがえる。「昆布を海外に…」と羅臼の漁師さんの前でいった時、あまりに途方もないことに思えたのか、皆ぽかんとしていた。しかしそれが現実のものになり、この先まだ増える可能性があるため、期待は大きくなる一方だ。
 「売り上げの比率でいうと、海外分はまだ2%程度ですが、未開拓の部分が大きいのでこの先が楽しみです」
 四十物社長が乗った“21世紀の北前船”は、マラッカ海峡、スエズ運河を経て、ヨーロッパ大陸へとのびつつある様子。お店も漁師さんたちも元気のタネを見つけて、よろこんぶの状態だ。

株式会社四十物昆布
黒部市生地中区339-5
TEL0765-57-0321 FAX0765-57-0867
事業内容/こんぶ、わかめ、こんぶ加工品の販売
従業員/26名(パート等含)
URL http://www.aimono.com/

作成日  2013/2/18

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