[第32回]株式会社タニハタ |
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忘れ去られそうになった「組子」を
ネットショッピングで復活 |
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母親に抱かれているのが、後の…。 |
ここに色あせた一葉の写真がある。撮られたのは1966(昭和41)年。若夫婦に第二子が誕生した時に記念に写したものだ。
父親は後に、建具職人としては最高の栄誉である、全国建具展示会で内閣総理大臣賞を受賞(1977年)した谷端敏夫氏。受賞によって、組子(くみこ)による障子・襖・欄間などの注文は格段に増えたが、もともと職人としての腕はよかったため、26歳で独立開業(1959年)してからは仕事に恵まれていた。
夫婦の子どもはカンナクズをおもちゃに育ち、小さいうちは勝手にどこでも行かないようにと、作業場の柱にヒモでくくりつけられたこともあった、という。「人に見られたら、子どもを虐待している、と避難されたかもしれない」と、父親は第二子が小学生の頃に笑いながら語ったそうだが、その第二子こそ今回取材でお話をうかがった谷端信夫社長。親の背を見て育ったせいか、子どもの頃から家業を継ぐことを決めていたそうだ。 |
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「このままでは会社が…」と奮戦 |
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和の組子(くみこ)に洋の要素を折り込んで生き残りを図った谷端社長。 |
ところが時代の変遷とともに、住宅に対するニーズが変わってきた。従来のような純和風は徐々に敬遠されるようになり、それに合わせて組子の需要も減少。特に1990年ころからの減少は著しく、東京で就職していた信夫氏は退職して、家業を盛り上げるために帰郷したのであった。
「予想以上にひどい状態でした。昔からの取引先や同業者が、相次いで倒産・廃業していたのです。営業マンがいなくても仕事が入っていた当社でしたが、さすがに和風住宅離れの影響をもろに受けて受注が減り、親父(おやじ)をはじめとした職人さんたちも成すすべもない、といった有り様でした」と谷端社長はUターン当時を振り返るが、売上げ回復のメドは簡単にはつかなかったようだ。
まず試みたのは、障子や襖に使われてきた組子を洋風の間仕切りにアレンジして試作品をつくり、ホームセンターや百貨店、家具店、園芸店、通販業者、そしてハウスメーカーなどに飛び込み営業を展開。朝3時に、試作品を車に載せて東京へ向かい、飛び込み営業をして深夜1時ごろに帰宅。翌日は大阪で営業するために、再び車で朝3時に出発。週に2、3度出張することを始めたのである。また「インターネットで商売できるらしい」というウワサを聞きつけ、地元経済団体のサーバーを借りて自社サイトのホームページ(HP)を開設。新商品の洋風間仕切りも紹介した。
飛び込み営業の方は、何度もアプローチするうちに取り引きを始めてくれる企業がポツリポツリと現れ、ある大手通販会社ではカタログに商品を載せてくれるように。この通販会社とは以来十数年に及ぶ取り引きが続くこととなったものの、後に市場には安価な中国産の類似品が出回るようになり、せっかく開拓した販売先も新手の供給者に荒らされそうになったこともあった。
一方のHP開設の結果は…。会社案内的なコンテンツであったためか、資料請求の問い合わせが数件あった程度で、売上げにはまったく結びつかなかった。それゆえ飛び込み営業に一層、力を入れることになるわけであるが、無理がたたって谷端社長は過労でダウン。「苦労する伝統工芸」と地元の新聞に大きな見出しが踊り、血を吐きつつも営業に飛び回る社長の奮戦が記事にされた。 「こんな営業活動はいつまでも続けられない。他に販売方法があるのでは…」と思案を重ねていた2000年11月。谷端社長の目と耳を釘付けにする情報がテレビから流れてきた。「その時のことは今もはっきり覚えています」と社長は回想するが、番組ではあるキムチ屋が楽天に出店して、ネットショッピングで月平均200万円の売上げを確保するようになった、と紹介したのである。
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お客様のクレームも閲覧できるように |
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自社サイトでBtoBを開拓 |
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