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とやま産学官金交流会2012

産学官金連携が支える
とやまの“ものづくり”“ひとづくり”

自然災害や円高、そして低成長経済の続く中、国内外を取り巻く環境にはまだまだ厳しいものがあります。こうした状況下、オリジナリティのある「ものづくり」や将来を支える「ひとづくり」がますます重要となっています。多様なニーズに適応する「ものづくり」「ひとづくり」には産学官金連携が効果的で、本年度の交流会ではそれをテーマの基本に据えて、基調講演、パネルディスカッション等を実施しました。
その概要をお知らせします。

基調講演
「今必要な グローバル人材」

京都大学総長 松本 紘 氏

 全国でもっとも教育熱心な富山県で、講演する機会をいただき大変うれしく思います。教育は非常に幅が広い。学校教育だけではないと思います。人をいかに育てるか…、これは大変重要なことで、大学もその一翼を担っています。社会の中で人を育てる、私はそれを「育人」ととらえてきました。今日はこの視点で、普段考えていること、京都大学で取り組んでいることをお話させていただきます。
 ご承知のように日本経済はここ20年ほど大変苦しい状況にあります。2000年の日本の、国民1人当たりのGDP は世界3位でしたが、2007年には19位になり、その後は20位前後に落ち着いています。かつてと比較すると隔世の感があります。日本では研究者の数は多い、発表される科学論文の数も欧米に比べて遜色がない。研究開発費もここ5年間で22兆円つぎ込まれています。しかし経済は好転しませんでした。
 なぜでしょう。私は、日本は人材育成に手を抜いたのではないかと思っています。人材育成は幼稚園から始まって小・中・高・大学。人によっては大学院。そして社会人。社会人になってもしばらく続きます。この間20年から30年。どこかで誤ったのではないでしょうか。

時代とともに変わった大学への期待

 そこで、元気のある、経済成長率が高い国はどうかを見てみましょう。人間開発指数という指数があります。これは寿命、知識、生活水準などから計算されるもので、当然ながら日本やアメリカは大きい。日本やアメリカは過去の積み重ね、つまり積分値が大きい。しかし日本やアメリカは、伸び率が小さいのです。一方、インドや中国は伸び率が大きい。つまり物事が変化していく時の傾斜、すなわち微分値が大きい。微分値の大きさは心に作用し、元気が出る・出ないに影響を及ぼします。
 アメリカはこれに危機感を持って、産官学が連携してRising above the gathering stormという勉強会を行っています。オバマ大統領も教育には高い関心を寄せています。ひるがえって我が日本はどうでしょうか。
 ここで大学の役割について述べます。われわれ大学側は、「学生が勉強していない」ということが時々ありますが、「教員は熱心に指導しているのか」と産業界からご意見をいただきます。われわれが反省しなければならない点もあります。ただ、大学に対する期待は年代によって徐々に変わってきています。1950年代、60年代の大学進学率は10%から15%でした。そこには、健全な社会人を育成してほしい、良き市民を輩出してほしい、研究できる人も育ててほしい、などの期待がありました。ところが70年代、80年代になると、産業界から“専門知識を持った人材を送り出してほしい”と要望され、工学部が伸びました。経営の観点から法学部や経済学部への期待も高かった。またその頃、日本の企業は世界にも出始めましたので、外国で交渉できる人材も求められました。専門科目が大幅に増え、その分、教養教育が軽視された面があります。
 その後2000年頃になりますと、グローバル化が強力に求められました。海外に進出しないと、生き残れない状況が発生したからです。そこでは、グローバルな人材を育ててほしい、世界を舞台にリーダーシップを発揮できる人材を育ててほしい、という声が強くなりました。研究者にもグローバル化が求められるようになったのです。私が若い頃には、国際会議で何件発表した、国際的な招待講演を何件した、というようなことを自慢していた研究者もいました。それを国際化だと思っていたたわけです。しかし今求められているグローバル化は、そういうレベルのものではありません。

先を見据えて…

 江戸末期、吉田松陰は多くの人材を育てました。彼は29歳で処刑され、松下村塾で教えたのはわずか3年間でした。しかし、そこから桂小五郎(後の木戸孝允)、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋などが輩出されました。内閣総理大臣2名、国務大臣7名、大学の創設者2名。小さな私塾から誕生したのです。松陰の主張は書き残されていますから皆さんご存知でしょうが、彼はまず「志」を持つべきだと唱えています。その次は「気迫」だと。その後で「知力・体力」。志もなく気迫もなく勉強してもダメだと吉田松陰はいっています。
 そこで大学はどんな人を育成するか。志を持つためには、先のことをしっかり見据えなくてはいけません。例えば2050年の日本はどうなっているでしょう。およそ40年後のことです。今20歳の若者は、60歳です。2050年代がどうなっているかについては、すでに世界各国で検討され始めています。イギリスでは「エコノミスト」が2050年の世界について特集を組み、書籍も出始めています。論者によって視点が違うので大変興味深い。バブルと経済、高齢化、軍事と民主主義、民主主義のあり方、女性の地位、科学の進歩や宇宙開発について論じたものがあれば、宗教について言及しているものもあります。
 目を転じて、日本はどうでしょう。選挙が…、赤字国債を…、など近視眼的なことが多い。産業界も、10年先の会社のことより、今をどう乗り切るかが大事だと追い込まれているのが現状です。日本学術会議では、2050年代の日本について検討を始めましたが、真剣に考えなくてはいけない時にきていると思います。
 われわれが未来を予測する時にまず見るのは、人口動態です。今の年齢層がそのままスライドしていくわけですが、実感していないのが実態です。例えば日本の年齢別人口、1950年代は若い人が圧倒的に多かった。団塊の世代です。労働人口は5000万人ほどいました。それが60年代には6000万人、70年代7000万人、80年代7800万人とだんだん上がり、2000年、今度は下がり始めました。2050年に5000万人程度です。これは動かしようがありませんが、「量」の問題です。一方で、「質」の問題もあります。結果は量と質の掛け算ですから、人口動態から未来を想定する際には、これを考える必要があります。

つくられる認識のギャップ

 今、社会全体が、次の時代へと移行しています。もちろん皆それはわかっているのですが、実感ができているかどうかとなると、これは別です。私などは世代間のギャップを充分認識できていないと反省しています。
 若い人は、年配層を理解できているか。反対にわれわれ年配層は、若い人たちのことをわかっているのか…。そのギャップを示すようなエピソードを紹介します。
 こんな調査がありました。新入社員への調査で、「海外で働きたいと思いますか」と尋ねています。2001年には、「働きたいと思わない」人は30%、およそ3人に1人でした。今は約2人に1人が「働きたいと思わない」と答えています。ここを見ると、最近の若者は内向き志向であるというデータになります。しかしよく注意して調査結果を見ると、「どんな国でも出かけて働きたい」という若者は17%から27%に増えていました。単純に“海外で働きたくない”という部分だけを見て、内向きだと決めつけるのはよくないでしょう。メディアはそういうタイトルをつけがちですが、われわれは誤解してはいけません。
 「留学生の数が減ってきた」と新聞に大きな活字が躍ったこともあります。しかし1983年から2008年までの、海外へ留学した日本人の数は、3倍以上に増えているのです。新聞がいう「減ってきた」は伸び率が減ってきたという意味です。しかし実際に、アメリカへの留学生は少し減りました。われわれの若い頃のアメリカ留学というと、憧れでした。ところが今はそうではありません。「Freeze(動くな)」と、「Please(どうぞ)」と聞き違えて、銃で撃たれて亡くなったという事件も影響を及ぼしていると思われます。アメリカやイギリスへの留学生が減っているのは事実です。しかしヨーロッパの他の国々やアジアの国々への留学は増え、全体としてはバブルの頃の3倍近くは維持していますから、騒ぐのは大げさです。

情報技術の進化が社会を変え始めた

 次に情報化ですが、情報技術は、われわれが思っている以上に速く進化しています。この会場の年配の方々、Facebookはしておられますか? 数名手が挙がりましたね。ではTwitterは…。今度は挙がらない。それでは若い方々はTwitterは…? 結構手が挙がりました。このように年齢層による違い、また世界と日本の違いがあります。実はSNS( social networking service/ 社会的なネットワークをインターネット上で構築するサービスのこと)は、猛烈な勢いで社会全体に影響を及ぼし始めています。良いか悪いかは別問題です。
 例えば電車の中。自分の世界は携帯の小さな窓にしかなく、隣の人は「モノ」になっている。「群衆の中の孤独」とはよくいったものです。これはいわゆるゲマインシャフト社会からゲゼルフシャフト社会、言いかえると、地縁・血縁社会から機能や利便性社会に変わりつつあるところに、SNSがそれに拍車をかけたのです。
 SNSでは、情報は猛烈に速く伝わります。インターネット、Twitter、Facebookをしている人は、常時、何万人、何十万人、世界中では一千万人を超えているかもしれません。そのスピードは光速です。あっという間に伝わります。例えば誰かが「孔子は韓国人だった」と冗談に情報を出したとします。それを見た他の人が、「え、そうなの。孔子って韓国人だったの」と反応する。元々は嘘の話ですが、真に受ける人もいる。それが次々に反応してあっという間に伝わってしまう。それはまさしく鶏小屋の鶏と一緒。静かな小屋で、ある鶏がチョンと餌をつつくと、それに釣られて皆一斉につつき出す。ネット上での騒ぎはこれと同じです。代表的なのが「2ちゃんねる」です。私は見ていませんが、若者の多くは見ています。

価値観も変えつつある

 話を進めましょう。われわれの社会には、ある程度歳をとった方で、社会の中層でリーダーと呼ばれて活躍している方がいます。その方々は「資源のない我が国は、貿易立国でやるより仕方ない。だから経済成長しないといけない。もっと働こう。もっとグローバルにやろう」と主張します。
 でも、最近の若い人たちは平均的には、物質欲に依存した経済成長にはあまり関心がありません。家は親からもらえる。かつては兄弟が多く、2番目、3番目はもらえなかったのですが、少子化でそういうことは少なくなりました。車も共有で構わないという。いわゆるシェアです。ですから車もあまり売れなくなりました。私が学生の頃は、軽自動車でも憧れの的でした。
 私たちの世代と比べて大きなギャップがあります。公益資本主義という考え方も最近の特徴です。“1人が、あるいは1社が独占しなくていいではないか。シェアしよう”、“世界はフラットだ”と。こういう主旨の書籍がたくさん刊行されています。
 子どもの頃からインターネットに親しんで、インターネットを活用したビジネスで13歳で起業した子どもがいます。またネットを駆使して、200カ国の若者が参加する国際機関をつくった青年もいます。アメリカでは、ネット上での教育も試みられています。新しいことが次々起こり、あるいは試され、世界はかつてない速さで動いています。われわれ年配世代は、若い人たちとの認識に大きな差があり、社会が速いスピードで変化していることを認識していく必要があるのです。
 情報化の流れ、情報技術の発達は、その善し悪しは別として、……もしかすると悪い部分が多いのかもしれませんが……、社会に大きな影響を及ぼしています。若い人たちに、物欲が少なくなっている傾向もありますが、これも、こうした社会の変化と無縁ではないはずです。
 こうしたことを前提に、では人材育成はどうすればよいかというと、全体的に考えていく必要があると思います。しかしこれが難しい。企業の採用担当者はいいます。「教養の高い人を輩出してください」、「基礎的な専門力が必要です。人間力も必要です」と。当然のことを求めているのでしょうが、「言うは易し、行うは難し」。そういう人材の育成は非常に難しい。

総合文化人型のリーダーが求められる

 大学では、入学試験を実施して学生を受け入れ、基本的には4年間で卒業させます。しかし今日の入学試験は非常にシビアな競争になっており、0.1点の差で合格・不合格が決まるのです。そうすると、大学に入る前からその対策に追われ、試験を受ける技術だけうまくなってくる。マークシートのチェックの仕方もそう。社会や理科の中から、どの科目で受験するかという受験の分析やテクニックだけが高度化しているのです。
 従って、京都大学に入ってきた大学生も多くは疲れ果てています。そこで「リハビリが必要だ」といって、2年くらいリハビリして3年から専門教育に入ろうとすると、就職活動だという。一体いつ勉強するのか。そういう状態は、全国の多くの大学でも見られるようです。これを改めるには、入試制度を抜本的に変えなくてはならない。入学の時期を半年スライドさせることも議論されていますが、まだ一面的で、高校教育、中学教育も含めて、教育全体を改めないといけないと思います。
 その際、長期的な視野に立った取り組みが必要です。国の運営には、50年後、100年後を念頭に置いた目標が定められます。教育も本来そうです。学力と人格をしっかり磨いて大学を卒業するという目標を持つべきなのでしょうが、入試がゴールになってしまっているのが現状です。
 先ほども触れましたが、1970年代、80年代は、専門教育の強化が望まれ、学部では専門分野が充実しました。工学部を例にいうと、「私は大学で工学を勉強しました」というより、「電気・電子工学を勉強しました」という時代でした。そういう時代でも、芸術や文学など専門外の分野に造詣の深い方がいました。
 こういう方は、いわば「総合文化人」と呼ばれ、社会をリードする「オピニオンリーダー」の役を果たしていました。例えば東大の寺田寅彦先生。物理がご専門でしたが、文学にも長じ、たくさんの随筆を残されています。京大では、桑原武夫先生がそうです。かつては総合文化人が多数いました。しかし専門分野の細分化が進み、大学院の重点化も進んで細かい専門分野ごとの講座がたくさんできました。専門分野の幅はどんどん狭くなり、その狭い世界で競争はますます激しくなったのです。そうすると専門外のことを勉強する余裕もなくなりました。最近では、総合文化人は非常に少なくなり、代わりに出てきたのが「タレント文化人」です。これで良いのでしょうか。

50年先、100年先を見据えて教育改革を

 われわれ大学側も悩み、さまざまな試みに取り組んできました。京都大学での最近の事例を紹介しましょう。ひとつはリーディング大学院です。これは国を挙げて取り組み始めましたが、元々は京都大学が提唱してきたことを文科省が取り入れ、いくつもの大学で同時に進めようとしています。リーディング大学院は、世界で通用するリーダーを養成するためのもので、京都大学では「思修館」という5年一貫制の大学院をつくり、平成25年4月からのスタートに向け準備をしています。
 思修館は、自分で考え、実践する人材を育成する大学院です。まずは最初の2年間で世界標準に匹敵する学位論文の草稿に取り組んでもらいます。従来の修士課程の場合は、初めの1年は講義を受け、次年度に論文に取り組むといっても、インターンシップや就職活動などで、実質論文に取り組んでいるのは半年もありません。それを反省し、2年間しっかりと研究してもらいます。
 それも入学時から全員「学寮」(合宿型研修施設)に入ってもらい、専任教員も学生と一緒に住み込みます。優秀な学生には年間240万円程度の奨励金を支給し、学業に専念してもらいます。また別途、年間100万円程度の研究活動費もサポートします。アルバイトより研究に精を出しなさいということです。
 夏休みなどの長期休業には、国内外のサービスラーニングが組み込まれ、短期のボランティア活動にも従事します。ボランティア活動では、その精神を学ぶだけでなく、リーダーとしての立場や視点、あるいはその地の文化や社会習慣を理解して行動できるように鍛練していきます。また各界のトップリーダーを隔週土曜日に講師として招き、熟議を行います。講師1名に対して学生数名。ほとんどマンツーマンです。単なるリレー講義ではなく、講師のお考えを学生にしっかり伝授していただく。
 そして3年目には、「八思」と称している共通基盤科目について学びます。八思とは「語学」「芸術」「人文・哲学」「経済・経営」「理工」「法律・政治」「情報・環境」「医薬・生命」の8つの分野を示しており、これは必ず学ばないといけないことになっています。大阪で「八策」という言葉が浮上していますが、この大学院構想は3年前から検討していて、当初から「八思」と名づけていました。
 4年目に上がる時には進学審査を行い、今度は海外の大学や研究所、国際機関などで特殊研究のフィールドワークとして1年間「武者修行」してもらいます。そこで国際的に通用する総合力、社会性、リーダーシップなどを実践的に学んでもらいます。派遣の費用は大学が負担します。
 そして仕上げの5年目には、特殊研究のプロジェクトベースリサーチ(PBR:発展型プロジェクトベースラーニング(PBL))を行います。院生一人ひとりにプロジェクトを立ち上げさせ、自分で進めさせます。ここでは大学は、お金も人も支援しません。企業や研究機関を回って、お金と人を自分で集めるのです。
 さてここまでやると、1学年の定員を20名と想定しているのですが、最後の学位審査に残っているのは10名とか15名に減っているかもしれません。しかし、その難関を乗り越えた学生は、すでに各界のリーダーたるべく頑固とした自信と実力を持っていると確信しています。

若手研究者を支援

  京都大学の取り組みとしてもうひとつ紹介したいのは、白眉プロジェクトです。このプロジェクトは、世界トップレベルの研究者として次代を担う若い研究者を支援するもので、講座の枠を越えて、大学全体で年間最高20名の若手研究者(白眉研究者)を採用し、5年間研究を支援しようというものです。実際の研究活動の場は、京大においてもいいし、他の大学・研究機関においてもいい。ただひとつだけ条件がありまして、2週間に1度は、情報交換や刺激を与え合うための協議の場に参加する。これはリアルでもいいですし、ネットを通じての参加でもいい。5年間研究に専念していただいて、5年後にどこかの大学・研究機関にヘッドハンティングされたらいい。そう思っています。今年(’12年)は、655名の応募があり、その中から19名を採用しました。この公募は、国際的に行っているもので、今年採用になった方のうち1/3程度は海外の方でした。
 研究・教育の場では、可能性のある人を採用することが非常に重要なことだと思っています。教え込むというより、自分で、自分が持っているいいものを発揮していただく。われわれの役目は、その環境を与えることです。だから「育人」なのです。
 入試については、いきなり全体を変えるわけにもいきませんので、京大ならではの特色入試を少しずつ実施していきたいと考えています。全学部が検討を始めました。「自ら課題を発見しチャレンジする」姿勢、高校までの幅広い活動すなわち勉強もそうですし、運動や課外活動も評価の対象で、受験生を多面的に見ようという試みを始めています。
 また京都大学では、教養教育を見直すために国際高等教育院(仮称)について検討し、3年前から準備を進めています。全学部の協力も得て進められ、哲学思想系、歴史文明系、芸術言語系、行動学地域文化系、社会科学情報系、環境系、物理系なども含めて、段階を踏んで勉強ができるよう改革が試みられています。
 教育は大学だけでできるものではありません。大学入試という大きな関門があるのは事実ですが、高校、中学、小学校、そして家庭も大事な教育の場です。また社会に出てからも教育の場です。その社会人が今度は親になってと、教育の問題はループ状につながっていくわけです。これは国全体で取り組まないといけません。そうしないと、ここ20年間の停滞は改善できないでしょう。特効薬のようなものがあって、特需景気がくるかもしれませんが、それは一時的なものです。長い目で見て、信頼を取り戻すようにしないといけないのでしょう。かつて我が国の製品は世界中から高い信頼を得てきました。その信頼を継承していけるような教育が求められているのです。大学も責任を果たしますが、産業界の皆様の協力も得て、育人に取り組みたいと思っています。今日はありがとうございました。

質疑応答

 お話の中に「総合文化人」という考え方が出てきました。まさに今そういう人材が必要だと思います。そのための京都大学の取り組みの紹介もありました。ただ、大学教育で素晴らしいシナリオをつくっても、中学・高校教育とのつなぎ目で、木と竹をつなぐようなミスマッチが起きているのではないかと危惧するところです。実際、今日の高校教育は、受験のテクニックに傾きすぎているようで、先生がご提案された教育に、うまくつながらないのではないかと思いますが、いかがでしょうか?

  おっしゃるとおりです。私が高校生だった50年ほど前、高校によって違いはあったと思いますが、私が通っていた高校では受験についてはほとんど気にせずに教育をしていました。全教科必修で、試験に通るための授業は受けていません。音楽や芸術の授業も数学と同じ重みでした。私は、それは非常によかったと思っています。私と同年代の方は、高校までの教育とはそういうものだと思っているはずです。しかし現在の高校の先生からは、今の高校教育はまったく違うということを私も教えていただいたのですが、履修と習得は違う、と。「授業を受けたらよい」ということと、「理解してある得点以上をとる」ことは違うと。指導要領も変わり、科目数もずいぶん減っています。入学試験対策の予備校がたくさんできています。小学生から通う予備校もでき、年間授業料は220万円だそうです。国立大学の授業料は58万円。おかしいですね。また例えば高校の理科ですと、私たちの頃は物理・生物・化学と習いました。しかし昨今は、どれか一教科でよい大学が増えましたので、生物を履修していない高校生が医学部に進学することもあるのです。大学側もこれはおかしいと思っています。昔のように全科目勉強しないといけないようにして、入試制度も変える。大学入試を最終目標にされる保護者も多いので、その意識を変えていただく必要もある。昔の制度を今風によく考えて、高大の接続を図ることが最重要課題だと思っています。

作成日  2013/03/04

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